県立文書館による『粟飯原家文書』の学術検証
概要
神山町粟飯原家に代々伝えられた 総数約2,600部の文書群 は、徳島県立文書館により目録化・マイクロフィルム化された 学術的検証可能な一次史料群。日野善雄(県立文書館)「粟飯原家文書について」(徳島地方史学会 地方史班)が本ノートの基幹資料。8代権左衛門・9代庄太夫・10代与一 の3代が、近世阿波の村落支配・文化資本・祭祀継承の中核を担った。
1. 出典
日野善雄(徳島県立文書館)「粟飯原家文書について」 徳島地方史学会 地方史班、261-264頁 → 元PDF:📄 261-264.pdf:粟飯原家文書について
2. 文書群の概要
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 総数 | 約2,600部 |
| 種類 | 土地売買・養子縁組・訴訟処理の公文書〜書簡類の私文書まで |
| 現所有 | 神山町 |
| 保管・公開 | 徳島県立文書館で「栗飯原家文書目録」が作成され、マイクロフィルム化 |
| 学術的位置づけ | 学術的検証可能な 一次史料群 |
→ この事実は、粟飯原家研究の史料学的基盤 を確立した。
3. 粟飯原家略系図(公文書ベース)
| 代 | 当主 | 生没年 | 備考 |
|---|---|---|---|
| – | 源右衛門→九郎兵衛 | – | 上山村下分庄屋・三日月(紋) |
| ① | 庄太夫(倶胤) | 1601-1658 | (上分系の祖) |
| ② | 太郎兵衛(宗道) | 1625-1684 | 上分庄屋初代・「お東さん」 |
| ③ | 太郎兵衛(宗貞) | 1650-1702 | – |
| ④ | 太郎兵衛(宗重) | 1673-1709 | – |
| ⑤ | 太郎兵衛(亮宗) | 1699-1759 | – |
| ⑥ | 浅之助(宗直) | 1726-1758 | – |
| ⑦ | 太郎兵衛(宗胤) | 1743-1823 | – |
| ⑧ | 権左衛門(清胤) | 1786-1864 | 号・粟山 |
| ⑨ | 庄太夫(胤重) | 1812-1868 | 号・東里、慶応4年郡付浪人 |
| ⑩ | 与一(粲胤) | 1850-1915 | 『粟飯原家略傳』『上分上山村小風土記』撰者 |
→ 古文書で直接確認できる最古の先祖は 寛永12年(1635)「名西郡之内大粟六カ村政所行キ人数御改」 に見える 源右衛門・庄太夫兄弟(粟国造遠祖説とは別の、実証的系譜の起点)。
4. 三日月(紋):下分系庄屋の物的証拠
九郎兵衛系(下分庄屋)に「三日月」の通称・家紋 が文書上で確認される。
これは 粟飯原氏:千葉氏との繋がりと妙見・月信仰の系譜 §粟飯原家住宅の三日月紋 と整合し、千葉氏の月星紋との祭祀的接続を示す物的痕跡。
→ 粟飯原姓の誕生と長宗我部・蜂須賀期の没落 の「千葉氏を称した」記述が、家紋という物的形態でも継承されたことを示す。
5. 蜂須賀家「卍」紋の御蔵
上分の粟飯原家屋敷の敷地内には、近世のなごりとして 蜂須賀家の「卍」紋付きの御蔵 が現存している。
→ 藩政期に粟飯原家が 庄屋として藩から公的に承認・保護 されていた物的証拠。祭祀権を失っても、村落支配の中核 には残ったことが分かる。
6. 文書中核期:8代権左衛門・9代庄太夫・10代与一
文書の作成年代は 寛政年間(1789-1801)以後 が多く、現存文書の中核は以下3代:
6-1. 8代権左衛門(1786-1864)― 庄屋・文化人
- 文化15年(1818)庄屋役就任
- 文化7年〜文政3年に 棟付調査 完成
- 三味線は素人の域を超え、文化13年に 藩主別邸の富田御屋敷で技を披露
- 杯と牡丹に金鶏の掛軸 を褒美として下賜される
- 弘化3年(1846)四男源八郎を 三味線修業のため大坂に遊学 させる
→ 庄屋が 文化の担い手・都市文化への高度な接続 を持っていた証拠。
6-2. 9代庄太夫(1812-1868)― 学問家・嘉永洪水救済
- 幼名友吉郎、号東里
- 幼年より 岸粟里に学び、徳島の 鉄復堂に入門
- 天保3年(1832)帰村後も学問・交友継続
- 嘉永元年(1848)洪水時の被災者救済・郷蔵再建に尽力
- 慶応4年閏4月、冥加金上納により 郡付浪人に取立て(武士身分復権)
庄太夫「日暦」
「日暦」4冊(天保13年正月〜弘化4年9月) を執筆:年貢上納・祭礼・災害・風聞・交友・食事までを詳細記録した 村と庄屋の日常を伝える一級史料。
→ 息子・与一が 大正2年(1913)に筆写 したものが現存。幕末阿波の山村社会・庄屋層の生活誌として 独立した史料的価値 を持つ。
6-3. 10代与一=粟凡直粲胤(1850-1915)― 維新後の歴史家
- 幼名荒太郎
- 新蔵院宥照に手習、新居水竹に師事
- 慶応元年庄屋御用代、明治元年(1868)庄屋御取役
- 明治壬申戸籍(1872) 作成時に名西郡第五小区上山村上分・下分・左右内3カ村の取調役、戸長を歴任
- 明治7年上分上山村村長
- 公職引退後、自家文書の整理・本文裏面への作成年代/表題/内容書込み・庄太夫「日暦」の筆写に尽力
- 大正2年(1913)『上分上山村小風土記』 を編纂し、緒言に「徳川政府以降凡三百年間民政ニ係ル書類ヲ纂輯シテ上分上山村ノ事歴ヲ著シ」と記す
「現在に至るまで粟飯原家文書が大きな散逸を免れたのは、彼の尽力のたまもの」(日野論文評)
→ 与一の社名改正運動への抵抗活動 と一体の業績。
7. 学術的意義(県立文書館論文の総括)
文書全体を見渡すと、庄屋と村民との関係、藩との関係、他村との関係など、村における 公人としての庄屋の役割が非常によくわかる。さらにその一方で、文化の担い手としての庄屋の役割の大きさ を見て取ることができる。地元の名士との交流や子息を徳島城下や大坂に遊学させていた事実は、当時の庄屋が 相当の知識と教養 を身につけていたことを裏付けている。さらに 中央で起こった事件などの情報伝達の早さ は、村の範囲をはるかに越えた 広範囲の情報網 を作り上げていたことを物語っている。
8. 阿波説研究への含意
| 論点 | 補強される事実 |
|---|---|
| 史料の実在性 | 県立文書館による目録化・マイクロフィルム化で、粟飯原家文書は 学術的検証可能な一次史料群 となった |
| 与一の業績の重み | 『粟飯原家略傳』『上分上山村小風土記』は単なる家伝書ではなく、全国的地域史編纂気運の中で生まれた、明確な使命感に基づく歴史的編纂物 |
| 「日暦」の存在 | 庄太夫の日次記録は、幕末阿波の山村社会・庄屋層の生活誌として独立した史料的価値 を持つ |
| 三日月紋の物的根拠 | 下分系九郎兵衛の通称「三日月」が、千葉氏月星紋との祭祀的接続を裏付ける独立した物的証拠となる |
| 庄屋層の文化資本 | 藩主前での三味線披露・大坂遊学・徳島鉄復堂入門など、粟飯原家が 古代祭祀家系の記憶を保持しつつ、近世武士・文人ネットワークにも深く接続 していたことが判明 |
9. 参考文献
- 「粟飯原家文書」神山町所蔵(マイクロフィルム化済)
- 『上分上山村誌』同編集委員会 昭和54年
- 『上分上山村風土記』粟飯原与一 大正2年
- 『上山村上分粟飯原家系図』稲飯幸生筆写 昭和57年
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