神別本紀(しんべつほんぎ)
書誌情報
- 著者: 不明
- 出版/成立: 江戸
- 数量: 1冊
- 所蔵: 宮内庁書陵部,書陵部蔵マイクロデジタル変換,351・189
- URL: https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100243699/
注記
- 〈備〉『和漢圖書分類目録』(宮内庁書陵部編)による,書陵部ネガ:444908。
画像
書名 神別本紀 内容 員数 1冊 枚数 齣数 刊写 形状 27.3 cm × 18.5 cm 装幀 袋綴 所蔵者 宮内庁書陵部 函号 351.189 宮内庁書陵部 撮影 高橋情報システム株式会社 平成 昭和 3 年 7 月 10 日
神別本記 全 192 圖書寮 番號 49700 冊數 1 品號 351 189
神別本紀 序 太古の出来事について、誰がその詳細を極め尽くすことができようか。口伝は時代が下るにつれて失われ、伝説の煩雑な事柄は、年月を経るうちに実態が失われてしまった。その説はまるで夢物語のようである。これは我が国だけのことではない。漢の武帝の時代の太史令・張寿王は、黄帝の時代から白鳳三年まで六千年であると言った。この時、単安国らは、黄帝以来三千六百一十九年であると言った。班固の歴史書(漢書)はこれらを併記している。数億年とするような極端な説は必ずしも真実とは言えない。我が国に辰孫王が教化に来て以降、文字はあったものの、文章はまだなかった。王仁が文章を成立させ、男女を教育して初めて思考を記録できるようになった。
第十八、九代のころに史官を置いたのも、ただ一時的な備忘録に過ぎなかった。第三十一、二、三代に至り、時代が下るにつれて昔を尊ぶようになり、その間に廃れたり雑多なものが加わったりした。漢風でも和風でもなく、神明の明敏さがなければ判別できず、造化の徳がなければ統一することはできない。ああ、惜しいことである。神王が世を治めていた頃の民事は、ここに欠落してしまったのだ。ただ祭祀を司る家系だけが代々その職務を失わずにいる。その職務においては、我が国の古事を重んじ、漢の例を用いなかったため、職務の中に太古の真実が残されている。他の役人たちが漢の事柄を借用して我が国の古来の伝統を失ってしまったのとは異なる。氏の祖である太玉命の説は、今なお我が家(忌部氏)の説として伝わっている。中臣氏にもまた独自の家伝があるが、世俗の務めを重んじて祭祀を疎かにしてしまったため、古代の姿をたどるのは難しい。 推古天皇の時代に至り、皇子の聖徳太子が大臣の蘇我馬子とともに歴史書を編纂した際、祭祀の家系の人々をその編纂の列に加えなかった。もっぱら仏法に従い、口伝の音声をほしいままに記録したのである。そうは言っても、実質的な事柄として遺されているものは、我が家の祭祀が今日まで絶えずに存続していることの中にある。これを取って記録したため、神事についての詳しい記述はあるが、政事についての詳細はないのである。 近江朝廷(天智天皇)が禊の制度を創設したのも、中臣家が伝える神への誓いの言葉を借りて、王政の寛大な恩赦の文章を作成したものである。天武天皇の勅命を奉じた
この画像に記されているテキストの翻刻は以下の通りです。右側のページから左側のページへ、右から左の行順で読み進めます。 右側のページ 田辺史らは、推古天皇の時代に編纂された歴史書が入鹿らの放火によって焼失したため、(新たに編纂を命じられた)。太朝臣安万侶がかつて稗田阿礼とともに、火災後の残存した説を拾い集めて筆記したものは、いささか新たな情報が加えられているようである。『日本書紀』の編纂に至っては、一品舎人親王が安万侶らに命じて文章を撰述させた。そこには孔子の教えが交ざり、仏教や老荘の説が混入しているものの、依然として我が国固有の説の遺風も残されている。いわゆる天皇の崩御を「岩戸隠れ」と呼び、呪詞を唱える際に「幸釣、貧釣」と言うような類がそれである。仏教や老荘の説が混入している例としては、対馬の記述において龍宮のような概念を借りて用いたり、『淮南子』の文章を欠いた形で引用したりしているのがそれである。また孔子の説を用いている例としては、 左側のページ 天安河の記述や「反垣之道」といった表現がそれである。 文章の華やかさは古代にあり、実質は今の世に衰えている。道は『周易』に「聖人は神道をもって教えを設け、天下はこれに服した」とある通りである。『古事記』の序文は、信じがたいものである。たまたま祭祀を司る家系があったため、その故実を失わずに済んだ。故実がもし存続し、王政が記録を司るのであれば、皇孫の系譜を完全に残さず記録すべきである。これを伝えないままにすれば、必ずや文献から失われてしまうだろう。 そこで後世に残すため、従五位下の臣・忌部宿禰広村や、その甥の正六位上忌部首浜次らと、家伝について議論し、十巻にまとめてこれを奉呈する。万分の一でもこれを信じていただき、皇室の御加護に頼ることができれば、天神の道は永遠に棄てられることはないだろう。
編纂者:臣 従五位上神祇官権少副 忌部宿禰 演成ら 頓首稽首して謹んで書す 神別本紀 巻第一 古代の世も今の世と同じく、国があれば人がおり、人がいれば君主が立てられた。一邑や一郷の長はいたが、全体を統御する君主はいなかった。それゆえ、境界はあったものの、人々は素朴で奪い合うような心がなく、古くからの秩序が保たれていた。この島国に生まれ、生まれつき真っ直ぐな性質を持った聖人がおり、その功績を称えてイザナギの尊(去来乎)と諡された。尊はその妹でありイザナミの尊(去来並)と諡された者に語って言った。「天地の間において、太陽(日)ほど尊いものはない。太陽が私心なく万物を照らすように、どうして天下を統御する功績を立てずにいられようか。」ここで太陽に誓いを立てて言った。「天の浮橋(神の詔が事を示す)に立ち、初めて天と言い、瓊矛(玉で飾った矛)に志を込め、民に臨んでその君主となるのだ。」
この画像に記されているテキストの翻刻は以下の通りです。読み順は右から左、各行は上から下です。 右側ページ そこで太陽の化育の働きをもって陽国と名付けた。妹は定めに従って、殊更に兄と交わった。妹は兄に語って言った。「陽国を得た例に倣って国を巡れば、どうして天下の主となれないことがありましょうか。」兄は同意せずに言った。「太陽が照らした後に月が出るように、女の言葉が男より先に出るのは日月の道理に反しており、不吉である。」さらに月日を経て、改めて妹に語って言った。「太陽の働きによって一つの島を得た。たとえ天下を得たとしても、この根本を忘れず、これを国中の柱としよう。この一つの島が葦の初めのように生え出たことを忘れないよう、子孫のためにここに八尋の殿を建て、葦の芽生えの宮として共に住もう。」 その後、兄はまた語って言った。「北には国があり統治する君主がいる。東にも国があり治世の長がいる。 左側ページ 私がそれを妨げるのは太陽の心に背くことである。ここから西には国を統べる主がいない。そこへ赴いて治めよう。妹よ、月が太陽より先に出ないという道理に背かず、これを守るならば、共に従っていこう。」妹は「はい」と答えた。 すでに万物を生み育てる慈しみを胸に秘め、陽国を柱として順次導き教化していった。淡路の長津名彦という子については「大国を生むための土台となる胞衣(えな)である」と言った。伊予に至り、筑紫に至り、ことごとく長を子とした。沖の佐渡も一日で教化し、人が双子を産むかのようであった。大洲から巡り、国々は皆その恩恵に服し、まるで父母のように慕った。対馬や壱岐などの小さな島々は、力を用いることなく自然と服従した。これには長い年月がかかった。瓊矛の功績を尊び、天御中主と号した。
画像の内容を翻刻しました。 右側のページ: その光が万世にわたって失われないことを讃え、国之常立尊と呼んだ。その間、東西南の地において、ある者は常狭立尊と言い、ある者は国斟至尊と言った。その教化が及ばない土地では、大土尊や少土尊がいた。西には金精を生じた大戸之道尊と大戸麻女尊がおり、北には水に帰した重重尊や畏根尊がいた。祖先を称えて五世代にわたり祭った。 少しの間もこの徳から離れることなく、瓊矛をもって皇統を永遠に伝えたのである。別に百の大国を統べる王神が北を治めており、話し合わずとも同じ思いを抱いていた。瓊矛を太陽とし、比良木矛として導き、その領域を保った。また東を治める阿比須禰がおり、 左側のページ: 山脈を頼りとして他国からの侵略を恐れなかった。さらに東の道には未だ統一されていない場所が多くあった。 イザナギの尊には子がおり、誠実さをもって瓊矛を継ぐ者としてヒルコと名付けたが、太子として立つほどの雄々しい威厳がなく、ことわざに「足が立たない」と言われるほどであった。そこで葦原の基礎である陽国に留め置き、その柱が磐船のように変わらぬものとした。なおも国々を生み、巡り回って民俗や風習に従って治め、他には及ばないほどの徳があった。 妹が代わって瓊矛の主となった。初めに父母の尊が共に語って言った。「どうして天下を統一する至高の者を育て、太陽の功徳に代わる者を選び出さないことがあろうか。」そこで妹を立てて天下に君臨させると、万民はこれを真実の太陽として仰いだ。それゆえ、天照大神と諡したのである。
この画像に記されているテキストを翻刻いたします。右ページから左ページへ、各行上から下へと読みます。 兄であるイザナギの尊と妹のイザナミの尊には子があった。嫡男は穏やかな性質であった。次女は雄々しい器量を持っていた。次男はそれを助けるだけの力量を自然と備えていた。次の男は血気盛んで荒々しく、父母の教えに従わなかったが、天下を畏れさせ、国を鎮める礎となることが外見からも見て取れた。次の男は常に隠れて事を成さなかったが、石を加工して美しい玉を作る巧みさを自然と持っていた。次の女は遠くへ去っていった。 これらを合わせて諡した。いわゆる最初に立ち、太陽の位を継ぐべき瓊の徳を持っていたヒルコは、慈悲はあるものの勇猛さがなかったため、退けられて民の事柄を治めることになった。次女は日光のような慈愛と、日照りのような勇健さを併せ持っていた。兄に代わろうとしたため、妹のイザナミの尊は同意せずに言った。「女が男に先んじるのは不吉であるという言葉があります。どうして多くの男たちを差し置いて、女を兄の上に立てることができましょうか。」 兄のイザナギの尊は言った。「私は太陽を規範としている。太陽には昇る時と沈む時があり、それぞれに時節がある。昔の言葉はすでに過ぎ去ったものだ。お前が言ったのは過去のことである。今の言葉こそが生きているのだ。次女の性質は多くの男たちに勝るほど雄々しく、人の下にいるべき者ではない。」 妹のイザナミの尊は喜んで言った。「あなとやし(ああ、なんと素晴らしいことか)、可愛らしいこと。」兄のイザナギの尊も共に喜んで言った。「あなとやし、可愛らしいこと。」共に手を打ち鳴らして誓約を行い、心を込めて育てることを定めた。そして、我々が治める領域の天下の主とし、他の多くの子たちにはこれに仕えさせ、幼い頃から身分の低いことを見聞きさせないようにし、我々もまたその
子の上に立つことにした。その時の諡を少日女尊と言い、天下の主となった時の諡を大日女貴(天照大神)と言った。 その次の男は、日光を受けて再び露を浴び、枯れ死にそうな民衆を潤す性質に溢れていたため、月弓の尊(月読尊)と言った。思うに、草木は日月の光によって生きたり死んだりするものであり、大日女貴が天下を治めるにあたり、君主の徳の働きに符合した言葉なのである。 天孫の外祖父であり、また高皇産霊ともなった。今日、朝廷の外祖父として御竈に祭られる際にも高美産霊とされるが、これが朝廷の御竈祭の縁起である。 次男は石を凝り固めて美しい玉を作り、様々な工匠の始まりとなったため、天明玉命と諡された。次女の婿である淡路の津名彦が子を産み、大生と名付け、諡を可良須女命と言った。その子の諡を天水中主命と言い、陽国と共に淡路を治めた。これは天御中主の光を受け継いだものである。 古語に「天から生まれた者はだいたい六十歳で還暦を迎える」と言う(人々の性質が素朴で寿命を延ばす手段がなく、時代が改まるにつれて寿命も長くなり、諡もまたそれに従った)。慣例に従って歴代同じ人名を用い、世代を経ても子孫が同じ名を名乗ることは、およそ千二十代に及んだ。神代の大日女から彦五瀬尊に至るまで、みな天孫の名である。天親瓊矛の根本であり、その末裔のことを言うのである。後世になって代を分けて諡を奉り、ある者は大日女と言い、ある者は瓊瓊杵と言った。そのわずかな痕跡が神代に残っている(大己貴は八世代同じ名前であり、大和都の後は比宇など)。大臣が四世代同じ名前であるのもこれに属する。下の者も皆これに倣ったのである。 高皇産霊尊や神皇産霊尊の世の名は見えないが、それぞれにその時代の名があったのである。
右頁: 父であるイザナギの尊と母であるイザナミの尊が四人の子を生み、心を合わせて祈り願い、次女の尊を天上に挙げようとした。イザナギの尊の時代は、民と天地との隔たりがまだ遠くはなかった。ここで初めて天柱の道を以て、本島である陽国の道理を忘れず、日神(太陽の神)として授けた。その光が天下を照らし尽くしたことから、後に天照大神と号されたのは、まことにふさわしいことではないか。 同じく傍らの三人の子は、上から姉の尊を宗家として仰ぎ、その位の間に混じることはなかった。光を戴き、満ち欠けの位を守って政治を補佐した者を月弓尊と諡した。この尊には子である思兼命がおり、父の職務を継いだ。太玉命は天照大神を祭り、日を護る樹を育てた。忍日命は 左頁: 武業を備えて朝廷に参画し、その他の諸々の部民を率いて朝夕の御門の警護に仕えた。神立命は日常の御食事の世話を掌った。寵姫の栲幡千千姫は天吾勝尊(天忍穂耳尊)に嫁ぎ、三穂津姫は後に大己貴に嫁ぐなど、それぞれに役割があった。 我が祖先である太玉命と、その子である天富命は、直接に日を護る樹の職務を執り行った。中臣の祖先である天児屋命はこれを補佐し、鹿の肩甲骨を焼く占いの事と、穢れを祓う解除の事だけを掌ったのである。我が祖父の兄である忌部広成が心血を注いで訴え出た訴訟が、今日空しくなっているのは、この意図を議論したためであり、これが今の藤原氏のことである。広成が中臣氏を指弾し、日を護る樹の職務の縁由について悲痛な訴えを起こしたのに、どうして天皇の正しい裁きがないのだろうか。月読尊を守り、
天孫を擁立して保ち、そのため高皇産霊の位として崇められた。この尊もまた天照大神から同じく出たものである。ゆえに国常立尊から高皇産霊があるというのはこれである。 四番目の子は気性が荒く、心に荒ぶる性質を留め、道義に外れて強健であった。当時はまだ世が暗く教化が行き届いていない時代であり、強くなければ人は従わず、従わなければ推察することもできなかった。大日女貴が立って後継者となったが、この四番目の子は荒ぶる振る舞いが強く、人民が自然と若死にしてしまうため、深く憂える思いを抱いていた。 この時、父母の尊は子供たちと共に淡路の津那国に居り、天下に臨むための良い場所を選んで豊かな中つ国を得た。これにより天の使いを定め、日神がここに穏やかに安座し、四方の国々は皆これによって天上を敬うようになった。 四番目の子は、日神である姉の威厳を煩わしく思い、荒ぶる振る舞いをして猛威を振るった。父の尊は勅して言った。「お前がもし天下に臨んで天上の事を行えば、私が生み出した国民は皆恐れて離れてしまうだろう。遠くの根の国を治めるがよい。」四番目の子は同意せずに言った。「父の尊が生み出された国々を、どうして私が離れ去ることがありましょうか。」父母はこれを憐れみ、誠意をもって赴くべき国を定め、妹の尊と共に巡回した。北国に至ると良い田があり、後にそこを治める神が現れた。伊布夜坂に至ると、妹の尊は遠出に疲れてここで亡くなってしまった(今、その徳を集めるのは、その時の卓越しない者を祭るためである)。 父母は嘆き悲しみ、本土へ帰ることも忘れ、心が悶えてある時は断ち切れ、ある時は沈み込んだ。心の浮き沈みは平坂に居るかのようであり、千人の力で引くかのように重苦しいものであった。
こちらに画像の文字起こしをいたします。 大きな磐のような徳を胸に抱いて本土へ帰ろうとし(今、黄泉の戸口を塞いでいるものである)、御船を用いて靴や敷物などを祓いの道具とし、直接本土には入らなかった(これを祓事という)。道筋を何度か変え、国々を巡り、日向の小戸の橘の川に行き着いた。壱岐島や対馬島はこの時に子となって服従したのである。上津綿津見神、豊玉彦、中津綿津見神、底津綿津見神を子とした。これら三海の神の末裔は壱岐、対馬にあり、分かれて伊豆にもある。 父の尊は身の穢れを潮で清め、心の汚れを潮で浄化した。その潮は天の真名井の潮である。身を海底に沈めて中ほどに至り、中ほどから水面に浮かび上がった。浄未梨余、清未梨互とは、昔の帝が多くの女婦を抱え、男女の操りがあったことに対し、この心を固く豊かにして破れないようにし、これを祭ったのが住吉大神である。軍の威厳を立て、ついに国や郡を視察して巡り、津名に還った。 四番目の子に勅して言った。「ここに簸川の国がある。ひそかに聞いたところによると、昔から領治している神がいるそうだ。お前が赴いて、尊ぶべき者を尊んでも従わないなら、お前の残忍な業でそれに敵対せよ。」また陽国にいる微少な嫡子に対しては、詔して言った。「遠く筑紫の西を観察すると、山は険しく海は深く湛えられ、我が子孫が王となるべき地にふさわしい。私は重ねて生み出したが、遠く離れていて常に親しむことが難しく、その情を尽くせていない。お前が赴いて時を待ち、我が子孫のために導き手となりなさい。」それぞれに任務を与えた。四番目の子は言った。「私は世尊が去られた場所へ往きます。」
右側のページ: 自分の思いのままに遂行しようとし、願い出て言った。「どうして姉の尊に挨拶もせずに急いで往けましょうか。私はご挨拶に参ります。」詔してその勅を許した。 四番目の子は生まれつき性質が勇ましく健やかであり、速素戔嗚の尊と諡された神である。のちに神として怒り、他を凌ぐような気力はあるが、恵み許すような風情はなかった。三名から中津へ向かう道中、人々は恐れおののいて生きた心地がしなかった。その足音の響きは秋風が枯れ葉を散らすかのようであり、中津に達した。 日神(天照大神)は直ちに諸神に道を固めさせ、弓を引く尊に軍を司らせ、船を震わせる屈強な男たちを指揮させた。この時はまだ兵器がなかったため、弓を用いる尊が弓矢を造って献上した。忍日命は弦を避けるための鞆を初めて造って献上した。大伴の祖が造ったものが、後に鞆と呼ばれるようになったものである。 左側のページ: 日神は諸神に勅して言った。「私はこの天上の事業を太陽から受けたのである。向かってくる者は必ずや雪が太陽に迫るような無謀なものだ。」思兼神は策を巡らして言った。「神々よ、しきりに慌てふためくことはありません。四番目の尊は日神から愛されている神です。どうして事変を起こすことがありましょうか。私はその本当の意図を察しております。ここで争いになったとしても、日神の威厳をもって討てば遅くはありません。」 そこで手力雄や姫たちに出迎えさせ、日神を囲むように配置し、四番目の尊をその前に置いて、その意図を詰問した。その時、日神は恐るべき威勢を奮い起こし、恐るべき言葉を発して詳細を問い詰め、姉弟としての言葉を交えることなく、直接詰問した。四番目の子は父の尊からの勅命と、母の
尊が亡くなったことを告げた。 日神は涙を流して悲しみ、武威を緩めた。共に太陽に背かないという誓約を受け、天上に留まり、親睦を深めて何年も過ごした。この時、それが何年であったか誰が知っていようか。 日神の教化を受け、まさに枯れそうな民衆の心を潤すため、剣を日とし、三段の光が内から生じ、玉のように荒ぶる気を稟けて、五人の御子を授かった。日神はこれを選んで喜んで後継ぎとした。しかし、その父に似ている者は民がなつかないと考え、その中で柔和な者を立てて太陽の位とした。後に天忍穂耳尊と諡されたのがこれである。これは四番目の尊の子であるが、日神の子として王位を伝える者となったのである。 これを伝えるべきか伝えないべきか。すでに伝えるという御心は定まっており、田心姫を祭ってよろしいとし、還さずに湍津姫を祭った。これにより事を定め、永遠に清らかな心を見せて祭るため、市杵島姫を祭った。この御心を四番目の尊に授け、「あなとやし(ああ、素晴らしい)」と言った。 初め、四番目の尊が天の中津に登った時、勇ましい命(後に天明玉命と諡された神)が道を見送って言った。「兄よ、太陽の位を望んではなりません。子孫を立てて皇統とすることを望みなさい。」その言葉が玉のように立派であったため、天明玉と諡された由来である。日神がその尊の血統に後継ぎを定めた御魂を、祭場のように三ヶ所で祭ったのである。 長い年月を経て、天忍穂耳尊が日嗣ぎとなり、その恵みの雨が四方に流れた。いわゆる五柱の子となった者は、天穂日命、天日子根命、生日日子根命、熊野
樟日命である。続いて生まれた子が一人いたが、天上の子にはふさわしくなかった。これを熯之速火命と言う。 速素戔嗚の尊は、天忍穂耳尊の父としての威光を増し、古くからの氏人はますます畏れ、自然と猛風のように厳しく激しい態度となった。民人は苦しみ、大小の過ちに関わらず全てこの神から罪を得ることになった。さらに二重に種を蒔かせたり、田の畔を壊したり、溝を埋めたりするなどの様々な罪業を残さず行った。天照大神の御田であっても親しく耕す者がおらず、まるで実った田に馬を放つような政治であった。 それでも日神はこれを許し、後継ぎとするため勇ましい尊を遠ざけないよう教え諭した。また「神が国を治めるには、祭祀を遠ざけず、常に祭事を重んじなければならない。父の尊が淡路の多我・津名に崩御され、これを祭って日栖と呼ぶのは、天子を祭ることを日栖とする縁起である」と言った。父の尊は庶民からまだ遠く離れておらず、まことに大日位に対する少宮と言うべきであろう。 年が経つにつれ、御子である位の威光に従い、素戔嗚の尊の振る舞いは、姉の尊に対して道義に外れたものであった。日神が神の衣を織っていた時、汚らわしい行いがあったため、機嫌を損ねて日栖の国に隠れられ、いつものように這いつくばって事情を分別することもできなかった。大島の伝えによれば、真冬の初めに崩御されたという。その後、その御魂を万世に鎮めようとして、その方法を合議した。思兼命が遠大な策を諸神に示して言った。「安易に御魂を招いたり妻を求めたりすれば、皇祖の威光が天下で軽んじられてしまう。重々しく恭しくこれを行うべきである。」
「私が後々まで深く考えたところ、すでに弟の尊に対する御怒りが解けず、岩戸を閉ざされてしまったのだ。日嗣にとって不吉であるため、御魂を招き寄せてここに鎮め、弟の尊の無礼な行いを祓い清めて日に仕えさせ、『少宮の詔』をもって北国へ送るのが、御心を慰めるのにふさわしい。それぞれ任務に就きなさい。」 御魂を奉り鎮めることは、表に出ない神事である。ゆえに太玉命に命じてその事を主宰させた。諸々の潔斎や肌脱ぎの儀式は、すべて広成が記した文章の通りである。泣き女の長が鳴き声を上げ、鶏が鳴くように常に闇の中であった。八百万の神が豊の中津に集まり、泣いて勧めた。思兼命の子である八倉比売命が日神に仕え、自ら憚ることなく神詠を行った。そのため、当時のその業は男にも勝るものであった。手力雄が岩戸の傍らに寄りかかり、天児屋命が祭事の供物を整えた。 伊予の国に葬り、その山の五百箇の真坂樹を用いて日籠の山とした。太玉命は、日嗣の国である豊の日栖に招き祭って鎮めようとし、鏡造りや幣造りらに命じて日籠の山の真坂樹の上枝、中枝、下枝を取り、弟の尊が隠れ伏したことへの戒めを示すための鏡や幣帛を懸けさせた。太玉命と天児屋命が共に祈祷を捧げた。太玉命の子である天富命と妹の天細女命は、幼く物事に無頓着であったため、神を笑わせる御笑子とした。祭りの祝詞において天を還すためである。竹の弓を琴の供えとし、手に茅の束を持って立ち、
祭場に仕え、幼い心で巧みに滑稽な笑いを誘ったので、皆えらぎ(喜び笑い)憂いを忘れた。思兼命が遠く深く考え謀ったところ、御魂を万世に鎮めるには、物事に執着のない幼い者(うずめ)に勝るものはないとした。また天細女命に命じた。(古くは幼女をうずめと言った。容貌がまだ整っていない意)これは幼女に向けた共通の道理であり、限るべきではない。人々は日蔭の葛を鬘とし、日蔭の襷をかけ、「日、日、日、日志布」と唱えて気を衝いた。太玉命は麻をまとい、十の数を負い、五階ごとに声を上げて御魂を招き寄せ、ここに生御魂を定めた。あちこちで火を焚き、神無き世から神の復する世へと還した。この時、深山から厳かに真坂樹の蔓が降り、すでに空には色が戻っていた(この文が経る日は、ただその御魂を招くためのみである)。古来より、死者は十の数の意味をもって還るのである。 太玉命は、遺された神体である鏡を結び納めた。八倉比売命がまずこれを執り、日神の御手を引くようにして奉り出し、御杖代として諸神に拝ませた。諸神は神がそこにいらっしゃるかのように敬い伏した。そもそもこの鏡を執ることは日嗣の職務であり、神聖な位は容易なものではない。そのため、御腹の子に見立てて八倉比売が謹んで務めたのである。これを葛の箱に納めて奉斎し、日栖で祭った。その後、後ろが不揃いな縄(しめ縄)を張り巡らせ、ここは一切の職務が触れてはならない場所の標とした。後ろが不備であるというのは、太陽の足の神縄であり、後ろが不備なのは陰陽の不足や余りの理を自ら供えるものだからである。 月読尊が日神の勅命に代わって言った。「我が天皇は代々、
この御鏡を見る時は、日神を拝するように決して怠ってはならない。初めて即位する時も、事あるごとに日神の詔を思い起こしなさい。」 古くは、男の神は剣を御体とし、女の神は鏡を御体として祭った。それゆえ、鏡は祭る君主によって尊ばれ、君主は鏡を崇めることによって永遠に絶えないのである。「我は日を護る宮がここに起きたことによって存在し、すべては神を崇めることによる。ゆえに鏡を崇め、鏡を崇めるゆえに社を崇める」という縁起である。 速素戔嗚の雄の尊は悔いて言った。「自分の無礼な行いを日神がいらっしゃる間に改めなかった。どうしてここに安穏と留まっておられようか。父の尊の詔に任せて北国へ往き、その激しい荒れ模様を治めよう。どうか諸神よ、人民のために私に罪を科し、事柄を私物化しないようにしてほしい。」諸神は恐れて承知しなかった。 月読尊と思兼神が相談し、公の事は公として、四番目の尊にわずかに罪を科し、頭から足までの装具を残さず贖い物とさせた。罪を負った民に見立てて蓑笠を授け、「志の立つ日には表に現れ、日光を受けることのないように」と言い渡し、神々はついに彼を追放した。これが四番目の尊が心を改め、今日に至るまで徳を垂れることになった縁起である。天児屋命がその祓の儀式を掌ったのである。
神別本紀 巻第二 正哉吾勝尊は日嗣を受け継ぎ、天下を治めようとした。性質が柔和であり、人民に対して威厳を立てることをしなかった。月読尊の娘である湍旗千津媛を娶り、月読尊の助けによって本国を治めていたが、日神のような威光には及ばなかった。 月読尊は言った。「かつて大日女貴が天下を治めていた時、父の尊は『留まっている子の尊に西の街を治めさせよ』と詔されました。また、父の尊が生み出された筑紫の国は、導きの尊の荒ぶる振る舞いのために遠ざけられてしまいました。父の尊が密かに巡行された地に、どうして巡行しないことがありましょうか。」と勧め、行くことを促した。吾勝尊は言った。「日神はすでに崩御され、
[右頁] その後、あなたの言葉は高木に祭られた日神の鏡の御恩の勅命のようです。私は常にあなたの言葉を高木の勅命としています。ゆえにあなたを高木神の代わりとしています。どうしてその言葉に従わないことがありましょう。私は赴きたいと思います。」 千津媛は豊の天上で彦火尊を生んだ。ここで吾勝尊は病に悩み、崩御された。葬儀の際、鏡を日神の御体に見立てて宮とした。今その場所を香美と言う。思うに、剣を用いなかったのは、剣の徳がなかったためであり、日神の威光と比べられたからであろう。 ここで高皇産霊である月の神が日神に代わって天下を治め、彦火尊を崇め育てた。成長に従って日神の王位の徳を伝え、彦火瓊尊(瓊瓊杵尊)とし、 [左頁] 天照神の王位継承者として天孫の尊とした。何年月が経ったことか。父の吾勝尊に代わり、降臨して西国を治めようとした。月の神は高皇産霊の威光をもって、日神の斎鏡を天孫に授け、「私の言葉だと思わないでください。まさにこれは日神が遺された御記であり、日神が直接授けられた御勅命です。『この鏡を見る時は、私を見るようにして決して祭ることを怠ってはならない。太玉命と天児屋命は斎殿を離れてはならない』と仰っています」と言った。 また、諸神を豊の中津に集めて議論し、「西国の辻にいる神が、まだそこにいるのか亡くなっているのか分かりません。とはいえ、敵対する神は稀でしょう。簸川の国の速素戔嗚の雄の尊がこれを請け負ってくれるでしょう」と言った。
「その御心の宮の神が亡くなって後、大己貴神がことさらに太陽の矛を執っており、そのほかに主となるべき者はいません。諸々の荒神たちはその後、天上を恐れていないと言います。私は誰を遣わしてこれを鎮め、その後にこの磐座を祭るべきでしょうか。」 星のように並び立つ神がおり、利兄雄と号した。密かに腹心を北国に向け、告げ口をする神がいた。利兄雄は恐れて北へ走り、倭文の祖らを遣わしてこれを討った。再び八百万の神々と事柄を議論し、勝手な振る舞いをしないようにした。皆が奏上して言った。「昔、速素戔嗚神が北の国へ行き、神が天の事実を伝えたというのは、おそらくこの事でしょうか。」諸神は言った。「我が正哉吾勝尊が天下を治め、直接天孫のために事を行わなかったのは、速日のようでした。 かつて他の女を娶って子ができましたが、これもまた速日のためでした。速日を西へ行かせましたが、西を去って東へ赴き、その居場所はまだ分かりません。防ぐ者がいるなら、勇ましい尊の神の末裔でしょうか、それとも違うでしょうか。」皆は「まことに天穂日命を遣わして、その様子を探らせるのがよいでしょう」と言った。 そこで天穂日命に勅して北へ遣わした。天穂日命は生まれつき和やかで性質が美しかった。勅を奉じて北に至り、国の神のもとに着くと、その国の人民は大国主を現世の神として祭り、その国の神の祖として崇めており、大己貴の威光が自然と備わっていた。天穂日命は、この国が素戔嗚神の意にかなっていることを見て、順応して国魂の神に逆らわず、黙って留まり数年が経った。高木神の代わりの尊は、その報告が遅すぎることを尋ね、
もともと天穂日命の性質を知っていたため、荒ぶるような反抗を企てているとは思わず、その子に志を含ませて試してみることにした。その子の大懶飯は、まだ命の称号を与えられていなかったが、人民は彼を敬って「于志(うし)」と呼んだ(古くは「大」を「于」と言った。于志とは「大」の字義であり、志に意があるわけではない。大人のことである)。于志は衆人の中から選ばれて赴き、父を諭そうとした。しかしこの神は孝行の厚い愛を持っており、また留まって父に仕えてしまった。そのため、長く報告に戻ってこなかったのである。 高木神の代わりの尊は、再びこのように日を敬い、彦火瓊尊を高天原に置き、皇祖の天照大神の御魂の遺志を得て、自ら神漏美となり、神漏岐・神漏美の意を体現した。ここに八百万の神を集めて協議し、遣わすべき神の根拠を謀った。 ここに一人の神がいた。甕速日神である。もともとは、イザナギの尊が黄泉の陰の気を悔い、過ちを改めようとした時、その心の剣の積み重ねと、それに付き従った甕速日神の末裔である。もとより神剣を持っており、布都心神と言う。内にいる時は甕祇であり、外に出る時は布都主の威光を逞しくした。上古において剣は極めて稀であり、天下にただ一、二の剣しかなかった。これをイザナギの尊に献上して祓刀としたのである(祓刀とは、心を断ち切る剣の表れの刀である。「ふつ」とはその断ち切る音である)。祓の業は神代から伝わるものであり、近江朝廷で御守剣の禊の儀式が佐久那度の八張口で行われた際、中臣金連がその祝詞を制定した。その刀はなかったものの、事柄として行われた。記録によって言えば、天子の祓刀と分けて記録とし、
大赦の広がりとした。イザナギの尊はこれを宝として後世に伝え、この剣によって邪悪を祓い退けたのである。 「防ぎ阻む神をどうやって取り除くべきか。」その時、魔祇(甕祇)神がこの列にいて進み出て奏上した。「剣だけが単独で往くべきです。私がこれに付き添って北へ遣わされましょう。」甕祇神はもともと我が剣であったが、今は朝廷の剣である。これを供奉して北へ下れば、自然と武威が備わる。これより世では建御雷神(武甕祇)と称するようになった。その武甕祇は、中臣の祖先が伝えて仕えてきた神であるが、祭る対象ではない。 すでに出発し、簸川の出雲に至った。布都の剣を地面の岩に逆さに立て、勅命を伝えた。大国魂神は笑って言った。「我が遠い祖先の、数え切れないほど昔の測り知れない時代から今の世に至るまで、大己貴の姿を容れ、心に少彦名の情を抱き、古くからこの地を保ってきた。もともとここにいる人民と獣との境界を分け、また百病を癒やし妖変を祓う方法を定め、民人の事に心を砕いてきた。そして私は父である素戔嗚神がこの地を治めて以来、永遠にその約束に背くことはない。今の日神のお考えを知らないというのに、どうして退くことができようか。」 武甕祇は語って言った。「大日女貴が崩御された後、吾勝尊は美しい資質をお持ちでしたが、性質は特に強くはありませんでした。大日女貴の皇弟は高木日代の祖父として彼を助け、吾勝尊の子である天彦火瓊尊を立てて、父の尊に代わって天下を治めさせようとしています。瓊尊はまさに大日女の気象に似ており、
人々は自然と慕い帰順しています。どうして日神のお考えを知らないと言えるでしょうか。」 大国魂神は答えて言った。「天地の始まりから自ずと長となった者がおり、これが私の遠い祖先である。日神の臣として太陽の矛を執り、人民を憐れみ、太古の初めに人と獣を分けたのは、我が祖先の大いなる造化の功績である。太古の世においては、日矛の心を失わなかった。そしてイザナギの尊もまたこの心を持ち、天の沼矛の功績は、我が父の執った日矛をも超えるものであった。ゆえに四方はことごとく従ったのである。我が父が終わった後も、古風を表に留めているのが大己貴であり、内に貴んでいるのが少彦名の契りであって、それが私に伝わっている。そして素戔嗚の尊がこの国にやって来たのは、我が父が終わり、母が私を身ごもっていた時である。素戔嗚の尊は我が母を娶り、私を清らかな地で生み育てたのである。素戔嗚である我が父の尊から聞いたところによると、『神々は形あるものを持ち上げて日神としている。我が世の祖先が私を持ち上げて大己貴としたのは、恥ずかしいことではないか。だから少彦名の反省がないわけではない。形を持ち上げるだけであれば、どうして少彦名という名を借りる必要があろうか。その風を察するがよい』と言われた。そして次の日神には勇ましき徳がないと、風の噂で遥かに聞いている。また次の日神の子である饒速日は、父の命を受けて西に来て、大山祇神の娘を娶って子をもうけたが、この神には功績を立てる操がなかったため、人民は従わなかった。私もまた、ただ我が心に帰するのみであり、
右ページ この勇気のない神に日々従うことは、素戔嗚という父の尊の命に背くことである。しきりにこれを持して八百万の荒ぶる神々を従え、武威を遺してこの根の荒国に存しているのである。今聞くところによれば、三たび束ねた日神が衆人の中から選ばれて長となったということか。」 武甕祇は「その通りだ」と言った。大国魂神は言った。「なんと壮大なことか。我が身が尊ばれるとはいえ、鶴の羽を衣とし、ガガイモの半分に割った殻を船とするような者が、どうしてこの恥を隠せようか。日神の光が初めて私の心の海に浮かんできて、照らし出した。日の矛を譲り、あなたに伝えよう。」 この時、大己貴の子である事代主神は御穂の海辺で遊猟しており、建御名方神は 左ページ 力を頼んで山深くにいて、猛獣を捕らえて食料とすることに専念していた。国民の心はこの二柱の命の間にあり、まだその後継者が決まっていなかった。 大己貴は言った。「私がこの日の矛を譲ろうとも、国民の心がこの二人の子から離れなければうまくいかないだろう。」その頃、日神はその長たちをここに集め、名もなき使者を大木の船に乗せ、多くの手で鳥が飛ぶように漕がせて御穂に至り、この意図を伝えた。 事代主命は言った。「我々は国を治めているとはいえ、ただ国の事に代わっているだけである。今から日神に従う者は、天の事に代わるのである。天の事に代わり、国の事に代わることは、万世にわたって系統が絶えないということだ。どうして少しでも辞退することがあろうか。私がいるから問題が起きるのだろうか。」そこで八重の
青柴の垣根を島の陰に造り、船を踏み傾けて移り住み、帰って来なかった。建御名方命は恨みに思い、「我々を差し置いて誰が日の矛を執るというのか」と言って進み出た。武甕祇に対して言った。「もし私が日の矛を執ったとすれば、たとえその矛の任務が重くて持ちにくかったとしても、私の手がまだ巨石を執っていないのなら、心安らかに任せられるだろう。」武甕祇は言った。「お前がそのように安らかであるなら、私の手もまた巨石を心のままに執り、ある時は空に揚げ、ある時は地に落とし、その日の矛を誤ることはない。ましてや我が天孫である日神の手においてをや。」 国民の長である神々八百万は、この言葉に再びひれ伏した。建御名方命はこれを恥じて、肥の科野の原(信濃国諏訪)へ退いて帰り、皆はこれを笑った。武甕祇は言った。「笑ってはならない。諸神よ、あの神が日の矛を持つようなものだ。矛は武である。」建御名方はこれにより建御名方神と号した。こうして八百万の荒ぶる神々で日の光に逆らう者はなくなった。そこで武甕祇は経都の剣を振るって天上へ帰り、事の次第を奏上した。 天孫の日神の尊は、高木の代わりの神として崇められ、豊国の中津の磐座を離れ、諸々の神部を供として、まず御祖の鏡を御前に斎り、恭しく四国の辻へと降った。そこに手長の神がいて、道に出て迎えた。諸神は皆これを見て目がくらみ、進むことができなかった。天孫の日神は「これこそ太陽の子である」と言い、天細女命に勅を奉じて向かわせた。辻にいる神は言った。「私は一族の中で年長であり、背丈は七尋ある。私の
言葉は太陽に対して果てしなく、鼻の長さと高さもまた七尋ある。昔、イザナギの尊の勅を奉じた天の游田の日子(猿田彦)である。」天細女命は言った。「つつしめりの尊ですか。」「そうだ。」「私は往きますが、あなたも往かれますか。」「私がもとから住んでいる豊の中津の五十瀬へ往き、留守を守りましょう。このために私が先頭に立って来たのです。」 天細女命がこれを奏上すると、天孫の日神は辻の神(猿田彦)に出会えたことを喜び、手厚く礼遇した。辻の神は言った。「その御祖の神鏡は、人に見せると不吉です。私がこれを掌りましょう。」約束を終え、共に天細女命と去り、天孫の日神のために奥で供をすることを約束した。「平奥」という名が美しいからであろうか。天孫の日神はこれを私物化せず、鏡を供えて奈の奥とした。 辻の神は常に微笑むような客の顔つきを好んだため、当時の神はこれを「恵美須」と呼んだ。「えびすける」という言葉から来ているのだろう。後に猿田彦神と号したのはこれである。 天孫の日神は西へ船出し、民人に穀物の種を施し、日の矛に任せて王者の教えを執り行い、筑紫の戸に至った。ここに大山祇の娘で、饒速日が生んだ娘がおり、しとやかで端正であった。天孫の日神は密かにこれを見て言った。「お前は速日神の血を引いているのか。私は勇ましい娘を憐れむ。」娘は言った。「その通りです。父のことは知りませんが、父は天神です。」村や郷の人民は皆、「速日神の忘れ形見です」と言った。天孫の日神はこれを召して、御戸の傍らに
侍らせた。翌朝、日向へ向かって出発し、数ヶ月が経った頃、娘が慕ってやって来て言った。「私は皇室の血を引く子を身ごもりました。」天孫の日神は疑って「違うだろう」と言った。娘は言った。「私の父の神は天神であり、私の母は一夜の間に私を身ごもりました。今もまた同じことです。」天孫の日神は嘲って言った。「いくら天神だとしても、どうして一夜の間に人を身ごもらせることができようか。他の者の子であろう。」 娘は恨み泣き、空室の契りに臨もうとした。その姉が天孫の日神の思いを見て密かに告げたため、疑っていたことを深く悔いた。そこで天孫の日神は空室を焼く契りを疑いなく受け入れ、皇子が生まれた。これを海幸彦と言った。数年後、皇子が生まれ、これを山幸彦と言った。年老いてから皇子が生まれ、これを火明命と言った。 天孫の日神は三人の子に勅して言った。「あの海幸彦は荒々しく、自然と他を凌ぐ性質がある。火明命は控えめで、自ら進み出ない性質がある。ただ山幸彦だけが、世を照らす太陽の代わりの位にふさわしい。まさに高きを知り、弓矢を執る者である。そうはいっても、海幸彦は兄である。どうして地を譲らないことがあろうか。まさに下を知り、海の事を護るがよい。」火明命には日嗣の意を任せた。 数年が経ち、日向の国で崩御され、可愛の山陵に葬られた。今、小前の書を案ずるに、速速日傘が西へ下った初めは日梓にあり、薄梓であって速日であるため速日村と言った。この梓とは私のことである。農作業の跡は今も萼に見える。また高日郷は天孫の最初の宮の跡である。その後の児湯の宮の岬は、天孫から神武天皇に至るまで、変わらぬ宮の跡である。空室は神の契りの古地である。天孫の神が
崩御した後、兄の命は自然と残忍な行いをするようになり、弟の命は自然と仁恵の情を持っていた。遠い勅命に任せて職務を分け、山に行幸して高きを知り、高い所にある物を取るのは弟の命の役目とし、海に行幸して下を知り、低い所にある物を取るのは兄の命の役目とした。 多くの年月が経った。その職務があったため、海幸の名があり、それを失わなかった。山幸の位を執って、ますます尊ばれた。 ある日、兄の命が弟の命に言って言った。「そもそも兄が上にあり、弟が下にあるのが常である。」弟の命は言った。「私は父の尊から勅を受けましたが、今お聞きしたことにも根拠がないわけではありません。」兄の命の心は荒々しかったため、父の尊はこのように遠回しに勅したのである。もし兄の命が人民を慈しみ、弓を執る功績を得たならどうなるだろうか。「どうか試しに、弓と道具を交換してください。」 そもそも海の道具を交換して海に向かうというのは、海は下を臨む言葉であり、海幸は人民の情を釣るという言葉である。兄の命が山に向かうというのは、山に向かうのは高く登って世を照らすという言葉であり、皇統となる言葉である。 しかし弓を引く男には功績がなかった。弟の尊もまたその業に当たらず、釣の道を失ってしまった。古語に、上下の位を違えることを「幸を交換する」と言う。高い所にあるのは大業である。獣を見つけられずに空しく進む狩りのようであっても、その業を失うべきではない。(思うに山の猟をする者は、古くはこれを知る人を弓矢の人と言った)。それぞれが本業に戻った。兄の命が弟の尊を「釣りを失った者」として責めたのは、弟の尊のせいで人民が自分に従わないからであった。兄の威光をもってしきりに
懲らしめた。弟の尊は、兄が弟の下に居るべきではないと考え、また父の尊の遺言が空しくなっていることを悲しんだ。そのため、どうすべきか分からず、憂いながら海辺を歩き回った。名もなき雉を豊の中津に遣わし、猿田彦神を訪ねさせた。 その時、猿田彦神は潮の満ち引きの行き来のように示し、使いに言った。「我がイザナギの尊が遠く島の辺りを教化されたのは、憶原の祓除の徳によるものです。そこに津志広島があり、その島主の名を玉彦と言います。昔、豊の中津の教えに従って子となり、豊玉と号したのがこれです。弟の尊は兄の命に忌み嫌われて危うい状況です。しばらくそこへ逃れ、あの島へ行くのがよいでしょう。 そもそも我がイザナギの尊の瓊矛の道は、来るべき時に来り、去るべき時に去るものです。だから私は去ってもなお太陽の子の名を存し、大己貴が去ってもなお広矛を被り、事代主が去って青柴垣を結んだのも、これを同じくするためです。去る者は還り、長短を知って天道に従います。天の浮橋に立ち、瓊矛を下し、天の磐座を離れて西辺へ赴き来たるのも、まことに時節があるからです。尊が津志広へ去るのは、海幸の基となるでしょう。」使いは戻ってきて、この旨を奏上した。 弟の尊は身なりをやつして密かに行き、その道筋は知られにくく変えられていた。海に臨むと、兄の命の荒々しい業に苦しむ者に出会った。例えるなら、川雁が縄に掛かり、氏人が天に祈りながら矢を放つようなことが多かった。彼には
これを哀れみ顧みる心があり、縄を解いて海外へ逃れさせたので、民人は畏れ喜び、歓んで従った。 勇ましい尊にはまだ船で海を渡る術がなかった。そこで再び名もなき雉を豊の中津に遣わし、海を渡って行く方法を尋ねさせた。猿田彦神はまた教えて言った。「憂うことはありません。素戔嗚神が新羅へ渡って去った後、私は巡って船(かたま)があることを知りました。その後、竹籠に入れてこれをかたまと呼びました(古説では二つあるとする)。また津志の神火は竹籠に書いてこれを表します(船を本体として二つの説を捨てない)。 広島には全くかたまがないのでどうしようか。後にイザナギの尊の子とするため、自ら計らってかたまを指し示し、弟の尊に与えて人民を津志戸の海宮(海宮とは島主の居る所をのちにそう呼んだ)へ渡らせた。」一つのかたま、五百のかたまが進んでいった。 これより潮汐の主となったため、日見尊という尊名もまた、都尊の名となったのである。
神別本紀 巻第三
そこで茅蕟彦火火出見尊(かやふつひこほほでみのみこと)は、神である潮汐土翁(しおつちのおきな)の教えに従い、海辺の人民を率いて数十隻の加多末(かたま)の小船を海に浮かべ、風に乗ってある島に到着した。
その島は韓国(からくに)の方を向いており、自然と美しい場所であった。島の陰(北側)には珍しい木があり、島の陽(南側)には珍しい宝があった。しかし、これを王の宝とはせずに、真っ白な銀を掘り出して宝とした。
海辺の人民たちは、過酷な命令(労働など)から逃れるために彼に従ってやって来たのであるが、当座の蓄えとなるような穀物などの食糧を持っていなかった。そのため、道中で皆が飢えてしまった。
そこで彦火火出見尊は、自らの従者たちに求め集めさせた食糧を、すべて彼らに分け与えた。そして人民たちを門浦(かどのうら)に留め置き、ただ一人で島主のもとへと進み入っていった。
そこは豊玉彦の家の門であった。家は門を杜の木で覆い、その木陰には井戸があった。豊玉彦には二人の娘がいた。その姉が出てきて山幸彦を見ると、驚いて中に入り父に告げた。豊玉彦は言った。「そもそもイザナギの尊には多くの皇子がおり、私の父もまたその末席に連なっていた。かつて素戔嗚尊を掌り、私の父の神の導きによって向かいの島である韓国へ渡ったが、韓国は人民の風俗が悪く、教化して治めることができなかった。そこでこの島へ帰還されたのである。それ以来、純白の銀を掘って王に代わる宝としたのは、向かいの島の風俗であろう。素戔嗚尊がここに来られた時、私の父の神は三つの床を設けてこれを試した。今もまた同じようにしよう。これで天神の子であるか、天神の子でないかがはっきりする。天神の子が私に応えるなら、仕えないわけにはいかない。」 三つの床を設け、自ら出迎えて案内した。山幸彦は第一の上座にゆったりと座り、まことに悠然としていた。豊玉彦は手を打ち鳴らして拝し、「天神の子であることが分かりました。全く素戔嗚尊がいらっしゃった時のように、自分たちに対する無礼がなく、かえって敬うべき心が起こります」と言った。同情して、ここまで来られた詳しい事情を尋ねた。 山幸彦は言った。「兄に苦しめられている民を連れて、今、門の浦にいます。彼らを訪ねてください。」豊玉彦は魚人たちを遣わしてこれを呼び寄せた。その数は百二十余りであった。すべてに食事を振る舞い、事の次第を尋ねた。皆は言った。「天孫である瓊杵神が天降って以来、
我が国は豊かになり、山も海も自然と静まりました。瓊杵神が崩御された後、木花開耶命が天孫の子らを支え、天孫がご存命であった頃のように長く治められました。その末の弟である火明命は天に昇り、嫡兄である海幸彦は幼い頃から荒々しい性質でした。ただ真ん中の御子(山幸彦)だけが、自ら高きに鎮座する情を備えておられました。そのため、天孫は木花開耶命に『決して嫡兄の命を立てて日嗣としてはならない。人民が自然と枯れ果ててしまう』と詔を伝えられたのです。これにより、木花開耶命が亡くなられた後、人民は真ん中の御子を立てて山の幸に登らせ、また嫡兄の命を海の幸に置きました。しかし、嫡兄は天孫の遺言を恨み、山幸彦を海外へと追いやったのです。」 その言葉はまことに山幸彦を慕い、他に代えがたいほどの悲憤慷慨が表れていた。豊玉彦はこれを信じ、地に頭をつけて誓って言った。「天孫の日嗣であることを私に告げてくださった。誰がこれに骨を折らないことがありましょうか。どうか、しばらくこの地に留まってください。私は誠心誠意お仕えし、もてなしを尽くして承知しないことはありません。」 その娘である豊玉姫を王座に侍らせ、朝には寒さを伺い、夕には暑さを伺わせた。およそ三ヶ月が経ち、月が弓のように出て満ち、初めて欠けてまた戻るまで三回繰り返した。ここに月日の経つ早さを知り、郷里を慕う思いは三年を経たかのようであった。豊玉姫はたいそう美しく、寵愛を受け、島主の神もまた彼に心を傾けた。豊玉彦は厚く思いを巡らせ、深く探って言った。「神である山幸彦は、天に
右ページ 太陽の位につくべきである。」広く魚人たちを宮の傍らに集め、その術を尋ねた。皆は言った。「俱知目や阿迦目がよく知っています。このような事を行うなら、彼らを呼び寄せるのがよいでしょう。」すぐにこれを呼び寄せたが、俱知目は病気だと称して参上しなかった(そのため仮に俱知目と呼ぶ。この時はまだ定まった名がなく、ただ物事に応じて名をつけていた)。 一方、阿迦目が進み出て問いに答えて言った。「山幸彦には自然と人望があります。道具を交換して海幸の釣り針を失ったとはいえ、この島が辺境の島を教化するようになれば、たとえ木の釣り針であっても及びません。そうは言っても、海幸彦は聞くところによれば荒ぶる神であり、人民の寿命が縮んでしまいます。先の日神の勅命を守り、山幸彦は位を譲ってはなりません。 そもそも我ら海島の主がこの島を治めるには、二つの玉の道があります。 左ページ 思えば潮が満ち、思えば潮が干る。これはもともと、イザナギの尊がこの島にいらした時の尊い玉です。天神は目で治め、島の神は月で治めます。ゆえに月の道理(潮の満ち欠けは月になぞらえる)によって、よく潮を満ちさせ、また潮を干させるのです。これは太陽の光に月の陰影を加えるからです。ゆえにこれを玉と称して、潮満瓊、潮干瓊と言います。満瓊は水、干瓊は火です。日月の神である山幸彦は、瓊矛をもって治める位にあるとはいえ、その父の尊が早くに崩御し、母神に育てられたため、おそらく瓊矛の授与がなかったのでしょう。嘲られるかもしれませんが、満干の瓊はその根源を天に出するものです。仮にこれを奉り授けるのがよいでしょう。」
山幸彦は、潮の満干の瓊をもって天下を治めたため、豊玉彦と諡された。豊玉彦はこれをよしとして称えて言った。「お前の言葉は私の心によく応えている。天下を平らげる計略は、この身の言葉にあるのだ。そして阿迦目の名を改めて多比良としよう。」 干満の瓊の道理を、山幸彦に奉り授けた。「これに従って王が国を治めれば、人民は自然と兄から離れるでしょう。兄はただ一人で君主を名乗るだけです。もしこの王の行いに背く者があれば、我が島人は軍を起こし、波濤のように進んでこれを討つでしょう。これに越したことはありません。私のような身分の低い者の娘が、尽くしてお仕え申し上げます。魚たちは怨みを持ち、呪いの品を伝えて時を待つ日もあるでしょう。」彼を多比良と称した。 俱知目については、「言うべき口があるのに、その言うべきことを言わなかった。これは口がないのと同じだ。我が臣下には列さない。その名を奥に預け、永遠に天孫の食事には供えないように」とした。 時が来て、島の船や鰐などが争って山幸彦を乗せ、歌を歌いながら日向へ渡った。豊玉姫は別れを悲しんで言った。「身分の低い私が天神の子にお仕えしました。まことにその御恩は尽きることがありません。身をすり寄せて親しくしていただき、貴賤の隔てがないかのようでした。あの日の無礼を悔やんでも、どうして及ぶでしょうか。ことに天孫の血を身ごもりました。出産の日が近づきましたら、どうか天に願い、産屋を造って待っていてください。そうすれば幸せです。」共に契りを結び、天孫は帰還した。
卿美木氏らは皆、海幸彦に猟具を奪われ、すでに歌を歌いながら去って韓国へ赴こうとしていた時であった。弟の尊は兄の命に言った。「釣りを失った償いとして、海島の属するものを私から贖いましょう。」兄の命は言った。「お前が全く姿を見せなくなってから、人々や氏族は以前よりもはるかに私を疎んじている。お前が代わって治めよ。」弟の尊は三度辞退したが、潮満瓊の道理をもって人民に向かうと、すでに立ち去ろうとしていた人民は喜んで従い、争って尊の田を耕し、山の幸や海の幸を献上した。 ここで波風の穏やかな日を選び、豊玉姫が妹の玉依姫とともに船に乗ってやって来た。その船の名を加米と言った(古くは男の乗る船を和邇と言い、その勢いを言ったものである。女の乗る船を加米と言い、その寿命を言ったのであろう。おそらく生活の習わしである)。尊は人民に勅して産屋を造らせた。(手力雄神の子であり、月神の四世である)見命に鵜の羽で屋根を葺かせた。治津彦根神の子である八十津彦神に産屋の事を掌らせた。恐日命と李子の恐人命を蟹守とし、帚と弓矢で、道に外れて横から来る邪神を防がせた。その部下に帚を持たせ、御門の設営と警護を掌らせた。後に、弓矢を執る役目は本氏の大伴部にあり、帚を執る役目は末孫の掃部に分かれた(古くは海辺の俗語で、道に外れて身を立てる者を蟹と言った。おそらく横歩きを戒めたものであろう)。 出産の日が近づき、豊玉姫は願って言った。「私は天神の子にお仕えしましたが、もともと身分が低く、今さら言うべきことではありません。もし出産の習俗が天のものと異なっていて、
[右ページ] 天の者に厭われるようなことがあれば、どうか見ないでください。」尊は「分かった」と言った。豊玉姫は苦しみ、そばで見ると鰐のようであり、また波のようであった。子は無事に産まれたが、姫はついにここで亡くなってしまった。尊は悲しんで歌を詠んだという。その歌は今では知ることができない。妹の玉依姫がその子を抱いて大切に育てた。 日が経つにつれ、四方はますます豊かになった。兄は心を改めて言った。「このように豊かな国を治めることができるなら、兄となり、その民のために尽くそうではないか。お前が私に代わって民人の世話をし、私があなたに代わって山幸彦となろう。」山幸彦は争わずに兄の命に代わらせた。潮干瓊の道理をもって兄の命に事を任せると、民人は田を耕さず、漁人は仕事をやめ、田は枯れ、海は干上がるかのようになった。兄の命は [左ページ] どうすることもできず、ついに飢えて大いに悔い、再び弟の尊に代わってくれるよう頼んだ。弟の尊は争わずに高い所へ登り、潮満瓊を出すと、以前のように豊かになった。 兄の命は密かに「すべては弟の尊がいるからだ」と考え、兵を起こして討とうとした。弟の尊が海に向かって風の使者を招くと、豊玉彦が海面に設けていた兵が起き上がり、兄の背後から巻き込むように取り囲んだ。ここで兄は驚いて山へ登ろうとしたが、大山祇の徒が兵を率いて向かってきた。里へ出ようとすると、久米部が声を上げて脅かした。上へ逃げれば潮もまた上り、谷へ下れば潮もまた下った。進むも退くもすべて潮の満干の瓊のままであり、人民は山幸彦を助け、道に何の不安もなかった。兄はしきりに悲しみ、
右ページ 悔いて言った。「永遠に弟の尊にお仕えし、俳優(わざおぎ)の民となり、御門を導くために大声を出す代わりとなります。どうか恩情をもってこの罪を許してください。」山幸彦は勅してこれを許した。これにより潮に従う兵たちは退き、平定された。 忌部の神と中臣の神は、兄に伊予の方角へ向かって誓約させ、また豊玉彦の教えに従って共に塩水を飲ませて言った。「もしこの誓約に背くようなことがあれば、永遠に食塩に尽きる(死ぬ)であろう。」(誓いである。塩水を飲むことは対馬島に始まり、後についに天下の通例となった。今の潮の契りがこれである。) こうして和解し、その 左ページ 俳優の歌を見て言った。「潮の干る、潮の満ちる、子孫八十連属云々」。今日でもその国民は隼人となり、都に朝参する者の俗語にこの言葉が必ず上下にあるのは、おそらくこれに基づいているのだろう。 弟の尊は豊玉彦の子である穂貴見金を呼び寄せ、海の占いを掌らせた。その末裔である安曇の海、大養礼の海などが今に伝わっている。卜部とはその掌る職の称号である。右京に属する神別である海の大養折根の奏文には、「三国の卜部はもともと海神・綿積豊玉彦の出自である」と称している。隼人などの犬の鳴き真似が高く響くのは、自分たちの鄙びた体裁にこだわらないからである。 ゆえに、天にいらっしゃる太陽の子の神は、寿命が他より優れており、豊国で崩御された。世の人はそのめでたさを指して「紀」と言った。今「直入」と言うのは訛りである。その子である太田、保伊多、八重に賢を築き、
樹の祠を建てて清らかに祭った。その地は高く城のようであったため、今日の筑城である。山幸彦はこれを遥かに聞き、国は猿田彦に仕えて得たものであるとし、すぐにその祠を日向に移して「国社」と呼んだ。 また、高木代神の祠を薩摩の県に起こし、これを高木(今の高城がこれである)と言った。また、日神が遺された御鏡をここに移し、日置とした。 海幸彦が吾平卿で崩御した後、その末裔は今も西辺に繁栄して広がっており、朝廷の威光を動かすことが熊襲の辺りで特に多い。 年月が重なり、山幸彦が崩御し、高屋山の児湯の上がりに葬られた。その子は鵜の羽で産屋を葺き終わらない間に産まれたため、鵜羽不葺合尊と諡された。この神は自ら天下を治め、叔母である玉依姫とは年齢が十八ほど離れていたが、ついには妻とした。四方の民に臨んでその玉のような美徳を辱めず、また太陽の気を助けた。 海神の豊玉彦は老いてこれを歎息し、遥かに来て助けようとした。しかし風は静まらず、言葉を交わすこともできなかった。海幸彦の子らが諸々の荒神を率いて防ごうとする意志は止まなかった。豊玉彦が薨去した後、政治もまた荒廃した。上県や下県の者たちが豊玉彦を高御魂神として祭るのは、おそらく高皇産霊の位に意を取ったものであろう。また島国魂として祭るのは、その世において対馬の国魂として治めたからである。
豊玉姫をこれに合わせて祭り、綿積の御見神とした。 鵜羽不葺合尊には四人の子がいた。第一を彦五瀬尊、第二を三毛入野命、第三を狭野命、第四を稲飯命と言った。その彦五瀬尊を立てて太陽の位とし、狭野命を月読とし、三毛入野命には天の磐檍船を採って地を鎮めさせ、稲飯命には根の国の事を掌らせた。彦五瀬尊は生まれながらに武威を備え、それでいて猛々しすぎない仁徳があった。これにより太陽の子と称された。他の三人の子は太陽の子とはされなかった。 狭野命は彦五瀬尊に代わって日嗣となり、神武天皇と諡された。おそらく五瀬尊の後のことであろう。古くは狭土に住み、今は狭野と称する。野とはすなわち土のことである。 豊斟渟の根本に至り、喜んで斎部となる者は祭祀を掌る。祭祀とは目に見えない神事である。神事を修める者は、現実の事柄を知らなければならない。現実を修めた上で神事を修めることを神道と言う。もし現実を修めずに先ず常の事を修めようとすれば、神道はどこにあると言えようか。神としてこれを聖とするのが祭りの説である。聖とは人の至極である。神は古えの人の質朴さであり、多様ではない。多様であることに勝ってまことに聖と称するのである。賢愚や善悪、これらをすべて神と称したのである。 彦五瀬尊は鵜羽不葺合尊から業を受け継ぎ、専ら王位を執った。彦五瀬尊が人民に臨むにあたっては恵みと武威があり、四方はことごとく服従した。尊は教え諭して、
皆に言った。「そもそも我が皇祖である天照大神は、その徳を太陽になぞらえて人民を服従させた。その遺されたものに神鏡がある。また、血の祖である素戔嗚尊は八重垣になぞらえ、光を還して悔い改めた。その伝えられたものに神剣がある。これらはいずれも玉の働きであり、玉を王になぞらえ、八尺瓊の曲玉を造って宝として伝えたのである。これら三種のものは、君主の鑑となる教えである。今、鏡は斎所にあり、玉は天の磐座にある。しかし剣だけは吉備の神部の許にある。常に吉備へ使いを遣わし、これを怠ってはならない。」 もとよりこの神剣は、素戔嗚尊の子である五十猛神がこれを携えて吉備に至り、赤賢木の郷に置いて祀り、素戔嗚尊の神体としたものである。後にこれを朝廷で祭ったのは、素戔嗚尊の遺志がこの剣にあるからである。剣の長さは一尺八寸、柄は藤で巻かれて対になっており、鞘は竹筒であった。鏡は直径八寸、表裏なく光り輝き、よく世を照らす形であった。玉は八十四個が連なり、心のままに動くものであった。 その剣はどこから出たのか分からない。鏡は石凝姥命が造り、玉は天明玉命が造った。人の手から出たものが神となるのは、それを持つ人に奇しき徳があるからである。この三種は太陽の標として身を継ぎ、これを伝えて主上の衣服の度ごとに身につけるのである。鏡は天照大神を祭る主であり、剣は素戔嗚尊を祀る主であり、玉は世に伝える
符である。 しかし、彦五瀬尊の時は、まだ素戔嗚尊を祭る主が宮中に備わっていなかった。そこで天孫が日向に降臨した時に備えられた天の磐盾と天の磐靫は、天照大神の宝器であった。それぞれ二つずつあり、吾勝尊から分けられて饒速日命と天孫瓊杵尊の許にあった。山幸彦はこの弓具を用いて山の幸とし、彦五瀬尊の世に伝えた。その弓が一対で飾られているのは、天照大神の古えに帰り、二つの弓を一つに張る弓の縁起による。 彦五瀬尊は斎鏡と玉を受け、弓盾を授かって言った。「聞くところによれば、東に国があるという。そこへ赴いて従わせないでおられようか。」皆は「おっしゃる通りです」と言った。神武天皇が一人進み出て言った。「遥かに聞くところによれば、皇祖瓊杵尊の兄神に饒速日命がおられ、東へ往って治められているとのこと。同じ血肉の者が同じ血肉を征伐するのは、道理に合わず良くありません。」 彦五瀬尊は言った。「そうではない。吾勝尊は二人の子を分け、兄は還って瓊杵尊となり、速日となった。ゆえに饒速日と号したのだろうか。そもそも昔から島々や四海はことごとく我々が守ってきた。地が続き島が連なるのは、どうして天神の資質によるものではないと言えようか。我が父の尊がその兄である海幸彦を差し置いたのも、また天神の教えに任せたからである。天下を治めるにあたっては、兄弟の順序ではなく、ただ人民を安んじる君主であることが貴いのである。聞くところによれば、饒速日は
安日彦や長髄彦の妹を娶って子がいるという。そして安日彦や長髄彦が勝手な政治を行い、人民は不安を抱いている。当然そこへ赴いて治めるべきであり、それは我が手の中にある。私は船を造り、兵を整えよう。」 神武天皇が専ら政務を執り、稲飯命が船を掌り、三毛入野命は留まって都を守ることになった。神武天皇は諸々の軍衆に命じて言った。「そもそも我が皇祖の大神は筑紫の日向の国に起こり、豊の中津国を治め、ついにはこの西の辺境を治めた。しかし時機が至らなければ、大いなる事業も広く満たすことはできない。初めからこの西の地を棄てて東を治めようとするのは、西の教化と王化が完全に決着していないからである。だから先に西を治め、その後に教化を東に及ぼそうとした。ゆえに饒速日命に予めこれを治めさせたのである。皇祖の大神には時機がなく、今に至って初めて時機が備わったのだ。時には前後があり、世には動静がある。この機を捉えて政治を転換するのは天神の御意志である。どうだろうか。」皆は「まさにその通りです」と言った。 かくして彦五瀬尊の高貴さは真床覆衾のように厚く重く、天の磐座のようであった。そして神武天皇の武勇と智謀が官軍を率い、日向の曾の浦から船出した。すると、あちこちの島の神々が付き従い、それぞれの山の神々が類に従って集まり、海を照らし陸を輝かせる鏡の気が空に現れ、四方の民はことごとくこれを「天神の軍」と称えた。
神別本紀 巻第四 天照国照彦五瀬尊は、冬の寒さを冒して諸々の皇弟や軍民を率い、広大な海に皇舟を浮かべて東へ向かった。吉備に至り、豊浦に至り、速吸門に至ると、長推津彦が服従した(本名は宇都八子という。宇都とは高すぎるという意味で、その国の人民が自ら尊んで称したものであり、これが倭直の始祖である)。 菟狭に至った。菟狭の国造の祖である菟狭津彦・菟狭津媛の夫婦がおり、葦の芽が一つ生え出たような位の御殿に彦五瀬尊を迎え、三つの采の簏で炊いた飯を供応して奏上した。「そもそもイザナギの尊が海潮に臨み、次第に国を造られた時、先に葦の一つの芽から生じた賢明な識見によって天下を得られ、また一つの
島を生み、天の浮橋の上で太陽に誓いを立てて陽島を得られました。これにより天照大神がこの国を天照らされた時も、葦原のことを忘れず、この国を豊葦原と呼び、葦の芽生えのような殿を造ってこれを守られたのです。猿田彦がここに来て中津の旧宮を崇め、私がイザナギの尊の末の血筋から出た身にすぎないことを嘆きつつも、現実の政務を委ねられました。天孫が分かれて東へ去ったり西へ去ったりした後も、千津媛神を祀り、その業を失うことなく今日に至っています。 今、天孫の末裔がここへ来られたのを聞き、鹿の肉などを供えて食事とするのは、上古の太陽の子たちがまだ臼でついた飯を必要としなかったからです。ゆえにその世の神を祭るには、三つの杵でついた飯を用い、生きたまま祭るかのようにするのです。天の浮橋の根本を忘れず、三つの杵の飯を嫌わなければ、天下は平穏で安らかになります。もしこの遺風を失えば、たとえ精鋭の兵で人民を尽くしたとしても、天下は平らぎません。」と、古えの政治が国を治める玉の言葉にあることを奉り授けた。 彦五瀬尊は勅して言った。「その時に当たってその事を行うのが、上に立つ者の規範ではないか。世はすでに五つの頭の物を経て、時は明るく開けている。どうして三つの杵の飯で祭り、それを食べる必要があろうか。」 菟狭津の夫婦は共に言った。「上に立つ貴い方が、もしこの古風を守らなければ、下の者たちは驕り高ぶり、大いなる事業は危うくなるでしょう。」 神武天皇が奏上して言った。「国の神が計略を奏上するのは、すなわち天神が降した教えではないでしょうか。喉を潤すのに十分な川の水があり、腹を満たすのに十分な穀物があるなら、
喉が渇けば濁った流れも忘れず、飢えれば粗末な玄米も嫌わないものです。主上が好んでこれを召し上がれば、多くの兵士たちも自然と養いやすくなるでしょう。東征において大変良いことです。」 彦五瀬尊は言った。「私がこれを食べるのはよいが、先皇の神々に対してはどうだろうか。」神武天皇は言った。「先皇はすでにこれを食べられていました。それがその時代の常であったからです。今、精白された飯を供えようとするのは、自分の驕りを先神に押し付けることになりませんか。言葉は耳に痛いかもしれませんが、この心を変えるべきではありません。」彦五瀬尊は「私も同じ思いだ」と言った。 この時、菟狭津の夫婦は、彦五瀬尊は武勇においては神武天皇に勝っているが、神武天皇の徳は彦五瀬尊の上にあり、天下の主となるべき者はこの神武天皇であると予め見抜いていた。そこで神武天皇を三杵の飯の席につかせ、百の御馳走を並べた机を彦五瀬尊に供した。 彦五瀬尊の剣は十握であり、神武天皇の剣は八握であった。彦五瀬尊は人を吉備の尾羽張社に遣わし、これを模して作らせた。(古くは剣を尾羽張と言った。日本武尊に至って尾羽張という国名がある。事の詳細は大島の書に見える)。これにより、かの国に六つの社を置いた縁起は、大島の書に詳しくある。 ここに一つの旗矛があり、軍神を祝って東へ船出しした。岡を経て、可愛を経て高島に至り、浪速に漂い着いたのである。
単独で知り、これを討てばよい。日神から業を受けて後、古えの風である。また彦五瀬尊は言った。「身をもって弓矢を執り、功績が自分になければ、どうして大衆を率い、どうして我が身を安んじて天下を安んずることができようか。」 東へ進んで猪熊山に至った(山我意々の名である)。中国へ攻め入ろうとして熊を指さした。ただそれだけであろうか。 水に隣接し、越えるのが難しく険しい場所であった。神武天皇は衆に示して言った。「そもそも我が兄の日尊が東に来たのは、戦を好むからではない。諭して従うなら、どうして討つ必要があろうか。防ぐ者はこの狭くて険しい山で食い止めなければならない。先に進む者は中軍を顧み、後を進む者は背後を護れ。天皇の命令を待たずに私情で切り込む者は神の民ではない。」青竹の葉を採り、束ねて振り、兵を指揮した。これが今の軍の采配の縁起である。 安日彦と長髄彦のことわざに言う。「我々は太古からこの国を知っているが、たまたま天神の子である饒速日に出会い、自分たちの器量が及ばないことを悟って、妹を差し出して仕えさせ、君主として立てた。饒速日がすでに崩御し、妹が産んだ
可美真手命(馬志麻遅)がいる。どうして天神の子を棄てて、西海の異国の風俗に従えようか。」 可美真手命は勅して言った。「私が二人の臣下の補佐によってこの中国を保っているのは、天神の子だからである。我が父の神は『西に豊かな中つ国があり、世の政治を太陽になぞらえているため、人民がこれを仰ぐこと太陽のようである。私はその太陽の神の子であり、二柱の神がいてその兄にあたるが、徳が弟の子に及ばなかったため、一人は西へ去り、一人は東へ来た。時機を見て西にいる日嗣と国交を結び、決して争わず、また皇統を二つにしてはならない』と詔された。今来ている者は、おそらくその末裔であろう。防がなければ討つこともできまい。試しに二人の臣下のうち一人が往って、その意図を探ってこい。」 長髄彦は言った。「今来ているのは西の血筋です。しかし臣下である我々が、もしこの国を西の人間から奪われるのを見過ごせば、父祖の神々に合わせる顔がありません。」と二度と言葉を継がず、主君に対しても驕慢な態度をとった。後世の人が自己主張の強い者を「すねる」と言うのは、この長髄彦に由来する。 安日彦は言った。「国は我々の国である。今君主を立てている以上、後は主君の御心次第ではないか。」長髄彦は言った。「天神を崇めても、天神の一族に棄てられるのなら、私は供奉しない。」ここで安日彦は彼を諫める力がなく、共に兵器を整えた。可美真手命には区乃を司らせ、軍を自分たちの心のままに動かした。この時、可美真手命はまだ二十歳に満たなかったと伝えられる。軍を整え、四つの口に防ぎを置き、猪熊の東に備えを立てて
西軍を待った。自国の勢力は強大であり、遠征してきた軍には到底敵わないほどであったため、彦五瀬尊はしきりに進んで戦おうとした。 神武天皇は言った。「我が軍衆は遠くからやって来ました。日の出る方角に向かって敵と戦えば、太陽を背負うことになり不利です。少し待って、敵が油断した後に代わって攻めるべきではありませんか。」彦五瀬尊は言った。「多くの軍を率いてここに至り、一日でも経てば兵たちの士気は怠ってしまう。しきりに討って軍の機運を勧めるに越したことはない。」神武天皇はしきりに諫めたが、その言葉は用いられなかった。 鯨のように波打ち、山を動かすほどの勢いで、旗が光り輝き押し寄せた。安日彦と長髄彦は国や県の長を率いて木陰に伏せ、敵の勢いが進むのを待っていた。そして長髄彦が射た痛烈な矢が彦五瀬尊の胸に命中した。尊は声もなく倒れ伏した。軍衆は大いに騒ぎ立て、鎮めるすべもなく、軍は大敗を喫した。 神武天皇は言った。「私は日神から生まれた子である。上に立つ者が諫めを聞かず、東へ向かって討ち入ったのは、祖神の本来の意志ではない。道を迂回し、太陽を背にして、影に任せて征伐するに越したことはない。」彦五瀬尊の崩御を隠し、道を変えて敵の東へ出ようとした。 皆は言った。「神武天皇の知恵は彦五瀬尊を超えています。どうか代わって天下を治めてください。」神武天皇はこれを受け入れず、喪を慎んで軍を西南へ退かせた。皆は言った。「早くも主上が崩御されたのに、どうして軍を還すのですか。」神武天皇は言った。「どうして還すことがあろうか。南の山を迂回し、西から敵を受けるのだ。主上が崩御され、軍衆は勢いを失っている。しばらく休息し、
鋭気を養ってから討つのだ。軍を立て直すのである。」長髄彦はこれを追撃しようとしたが、安日彦は従わなかった。 神武天皇は軍衆と共に、今の河内の草香へ退き、盾を植えて陣を構え、兵たちの士気を落とさないよう三軍の将と語り合った。血沼の海、小木の水門に至り、ここで彦五瀬命の哀しみを祭り、衆に示して言った。「彦五瀬命は崩御される間際、剣を撫でて声を振り絞り、『ああ、口惜しい。山賊に射られるとは。弟たちや軍衆よ、この恨みを忘れず、必ず討て』と仰った。」 紀伊国の竈山に至って尊を葬り、後日の戦いで必ず仇を報いることを軍衆に誓った。一つの野に留まり、自ら仇を討つ心を祭った。後にその野を狭野と号したのは、神武天皇の故事に拠るものである。 狭野を越えて熊野の山に至ると、船から突然暴風が起こり、第二列の稲飯命の船が転覆した。敵を討とうとする意志の剣を持ったまま薨去されたため、後にこれを剣持神として祀った。神武天皇の子である手研耳命は言った。「軍中の死生は、今さら驚き慌てることではありません。」軍を率いて熊野の新宮に至り、名草を経て、防ごうとする名草戸畔を誅殺した。さらに錦戸畔とその長たちを誅殺した。 神武天皇の武威によって彼らを打ち破ったとはいえ、主を失い、深い山中で迷い、暴風や荒波に遭い、軍衆は毒気や瘴気にあてられたように心を落としていた。神武天皇が遠くの陣へ向かうと、高倉下という領主が山中に宿陣を設けていた。
(その後、子孫が野を領有し継いだため、熊野の高倉下と言うのである)。兵糧を備えて饗応した。二十七日間宿営し、ある朝、軍衆を山谷に整列させ、慰労の酒を賜った。 その時、高倉下が歩み出て奏上して言った。「昨夜の夢に天照大神が現れ、傍らに高木代神がいて勅して言われました。『彦五瀬尊が崩御された今、神武天皇を立てて日神とせよ。彦五瀬尊は矛の光なくして崩御された。そもそも建御雷神が日の矛を大己貴から伝えて受け取り、これを天孫に献上して国を平らげたのである。今、他を伐って威厳を示すべき時である。討たなければ、敵が勢いづいて我らを討つ恐れがある。矛の温和さは、日矛の厳格さには及ばない。これを神武天皇に献上し、日神のしるしとせよ。』建御雷神は言いました。『これを倉山の際に置けば、倉山は自然と明るくなるだろう。この日矛は、たとえ暗闇の中でも隅々まで照らし出すものである。』と。彦五瀬尊が佩いておられた十握の剣を矛の代わりとして献上する形とし、皆で一致して主上と仰ぎます。」 追祖し、山幸彦と諡を号したのはこの時である。神祇の礼を尽くし、太陽の位に代わり、日威を背負って影に従い、衆民に向かって大いなる磐の盾と靫を備え、勅して言った。「先皇の喪に遭い、眠っているかのようであった。私がどうしてこのまま長く眠り続け、仇を討つことを怠ることができようか。」 軍衆は皆、亡き主を思って眠っていた心がたちまち目覚め、日が暮れてから再び
夜明けを迎えたかのような意気込みで勇み立った。「進め。」軍衆を催起し、歌を歌いながら中洲へと趣いた。しかし南の山は険しく、手立てとなる道がなかった。北の谷は尖っていて、力及ばなかった。獅子のように駆け巡り、 大伴の祖である道臣命が恐れ入って言った。「太陽は東から出て南に収まります。東といえば夏は北寄りに日が出ます。太陽が東南にある時、これを背負えば西北の隅に出ることができます。」勅して言った。「お前を臣と号する。」(古語で臣をあまねく臣と称するのは、もとは日の丸と称し、今の説で日の扇と言う。後世に指揮を執る扇の将が日の丸の扇を貴ぶ縁起である。) 「鳥は太陽を得て飛び、太陽に宿る。日光が鳥に映れば、金色の輝きが自然と軍の背後を護るだろう。金色の鳥に従って回れば、東南西へと自然に導かれるではないか。」勅して日臣に命じ、道を切り開かせた。日臣命は幾重にも曲がりくねった道を回転して抜け、菟田の県に出た。 ここに長髄彦の腹心である二人の兄弟、兄猾と弟猾がいた。兄は尊を欺き、饗宴の中で討ち取ろうと企み、饗宴の場に罠を設けた。尊は道臣を遣わしてその意図を探らせた。道臣は早くもその奸計を見抜き、兄猾に牛と酒を設けさせて軍衆を労わせた。夜が明けると彼らは逃亡し、武勇の証拠もなく消え去った。皇尊は歌を詠んだ。 尊が吉野に至った時、吉野の長はまるで井戸の中にいて他の光を見ないかのようであった。その徒党は尾度の三谷にいた。世の人はこれを井氷鹿と言った。歌を歌いながら従い仕え出てきた。これが吉野首部の遠い祖先である。岩深き池のほとりに住む長も同じように出てきた。
仕えた。これを石排別之子と言った。これが吉野の国栖らの遠い祖先である。四方の者はことごとく逆らうことなく、その威光に教化された。ついに天下平定の基礎を築いたのである。 神別本紀 第四 終
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