用明天皇

要旨

用明天皇は、阿波説では聖徳太子の父として、子・聖徳太子の阿波在住論と一対に語られる。用明本人について阿波が主張する核は、「死後に阿波・板野へ改葬された」とする伝承に集約される。すなわち即位地・宮の阿波比定ではなく、聖徳太子が遺体を阿波・板野郡の伊太乃亀山(阿王塚山)へ移したとする陵(葬地)の阿波移転をめぐる伝承である。これらは現地伝承・寺伝・ブログ考察に依拠し、宮・即位地そのものを阿波に置く強い物証は確認されていない。

概要

  • 読み: ヨウメイテンノウ
  • 諱: 橘豊日尊(タチバナノトヨヒノミコト)/池辺皇子・大兄皇子
  • 代数: 第31代
  • 父: 欽明天皇
  • 母: 蘇我堅塩媛
  • 皇子: 厩戸皇子(聖徳太子)ほか
  • 在位(紀): 585年〜587年(在位2年と短い)
  • 通説の宮: 池辺双槻宮(磐余、奈良県桜井市付近)
  • 通説の陵: 河内磯長原陵(大阪府南河内郡太子町)
  • 登場文献: 『日本書紀』『古事記』

阿波説における位置づけ

用明天皇は、阿波説では 聖徳太子の父 として、子・聖徳太子の阿波在住論(聖徳太子の阿波在住論:馬宿生誕と報告寺・法隆寺関連)と一対に語られる。用明本人について阿波が主張する核は、「死後に阿波・板野へ改葬された」とする伝承 に集約される。すなわち、即位地・宮の阿波比定ではなく、陵(葬地)の阿波移転 をめぐる伝承である点が、初期天皇(崇神・景行など)の在位地論とは性格を異にする。

論点通説阿波説の伝承
宮池辺双槻宮(大和磐余)阿波・桜間(佐久良末)池の周辺に宮を定めたとする(awa_otoko)
陵河内磯長原陵(大阪・太子町)聖徳太子が遺体を阿波・板野郡板野町大寺の**伊太乃 亀山(阿王塚山)**へ移し替えたとする改葬伝承
弔寺①―板野町大寺=改葬に伴う弔寺。「日本国最初にして最大の寺」と伝え、寺僧は豊国法師(awa_otoko)
弔寺②―徳島市庄町・**法谷寺(救世山峯薬師)**=用明・崇峻・聖徳太子の弔い寺と寺伝が記す

→ 用明天皇は、阿波説では 子・聖徳太子の手で阿波へ改葬され、阿波の地に弔われた天皇 として位置づけられる。ただしこれらは現地伝承・ブログ考察に基づく主張であり、宮・即位地そのものを阿波に置く強い物証は確認されていない。

主要事績(通説)

  1. 欽明天皇の皇子として585年に即位。
  2. 仏教への帰依を群臣に諮り、崇仏・廃仏をめぐる蘇我・物部の対立が表面化した(用明天皇2年=587年)。
  3. 在位わずか2年で崩御。直後の丁未の乱(蘇我馬子と物部守屋の武力衝突)に連なる。

※これらは一般日本史上の事績であり、阿波説に固有の論拠ではない。阿波説が積極的に主張するのは、もっぱら後述の 改葬・弔寺伝承 である。

系譜

欽明天皇
  × 蘇我堅塩媛
       ↓
   用明天皇(橘豊日尊)── 第31代
       ↓
   厩戸皇子(聖徳太子)

阿波の関連

1. 板野・亀山への改葬伝承(阿王塚山)

awa_otoko の考察によれば、桜間(佐久良末=さくらま)池の周辺に宮を定めた用明天皇の遺体を、聖徳太子が 伊太乃 亀山(板野郡板野町大寺の阿王塚山)へ移し替えたという。地名「阿王塚」は 「阿(あ)の王」を葬った塚 の意とされ、阿波が古代天皇家の重要拠点であったことの傍証とみる。 → 詳細は 聖徳太子と用明天皇の改葬伝承、現地社は 亀山神社(板野町大寺字亀山)。

亀山神社の裏山にある 阿王塚(阿王塚古墳) からは画文帯神獣鏡2面が出土しており、古墳時代前期の有力な墓であることは考古学的にも裏づけられる。阿波説はこの物証を用明改葬伝承の補強に用いる。

2. 弔寺としての「大寺」と豊国法師

改葬に伴う弔寺として建立されたのが 大寺(板野町大寺の地名に残る)であり、「往古は全域が寺内、当時の日本国最初にして最大の寺」と伝える。寺僧は 豊国法師 で、現在は門居の井戸を残すのみという(awa_otoko)。

3. もう一つの弔い寺・法谷寺(救世山峯薬師)

徳島市庄町の 法谷寺(救世山峯薬師) は、その寺伝において 用明天皇・崇峻天皇・聖徳太子の弔い寺 とされる。板野の大寺とは別系統・別所在の伝承だが、いずれも用明天皇を阿波の地に結びつける点で共通する。 → 法谷寺:救世山峯薬師と法隆寺元社論

主要関連ノート

参照原資料(ブログ・Web)

  • 2015-02-07-豊国法師_阿波での活動(亀山神社と阿王塚山) (出典)
  • 2011-08-11-板野町 亀山神社(上) (出典)
  • 2011-08-13-板野町 亀山神社(下) (出典)

留保

注意

  • 「亀山天皇陵」伝承と用明改葬伝承を混同しないこと。 現地(徳島県神社誌・金泉寺)の伝承で阿王塚を「亀山天皇の御陵」とするのは、鎌倉期の第90代 亀山天皇(地名「亀山」との符合)に基づく別系統の伝承である。用明天皇への比定は awa_otoko の改葬伝承に固有のものであり、両者は「亀山」という名称の一致を介して重なっているにすぎない。
  • 阿王塚古墳(画文帯神獣鏡2面、古墳時代前期)は実在の物証だが、これが 用明天皇(6世紀後半)の墓であることを直接証明する一次史料はない。「6世紀の用明改葬」と古墳前期の年代観には開きがあり、年代整合は阿波説側の読みである。
  • 桜間池の宮・伊太乃亀山への改葬・大寺=日本最初の大寺、法谷寺=用明の弔い寺は、いずれも 現地伝承・寺伝・ブログ考察 に依拠し、同時代史料の裏づけを欠く。
  • 即位・崇仏論争・丁未の乱などは 一般日本史上の事績 であり、阿波説固有の論拠ではない。本ノートは阿波関連材料が薄いため、本文を短く、留保を厚くしている。
  • 「豊国法師」は『日本書紀』では大和(畿内)の巫医とされる存在であり、これを板野・大寺の寺僧とするのは阿波説側の比定である。
  • evidence_type: blog_hypothesis(改葬・弔寺伝承が中心、阿王塚古墳のみ primary だが用明比定の証明力はない)/confidence: 2(核となる 聖徳太子と用明天皇の改葬伝承 の confidence 3 を上限とし、年代整合の弱さを考慮して 2 とする)。

※本稿は、用明天皇本人に帰せられる阿波関連材料(板野・亀山への改葬伝承、弔寺としての大寺・法谷寺)を核に整理したものである。子・聖徳太子の阿波論は 聖徳太子の阿波在住論:馬宿生誕と報告寺・法隆寺関連 に委ねる。