萩原墳墓群(はぎわらふんぼぐん)

要旨

萩原墳墓群は、徳島県鳴門市大麻町萩原に所在する弥生時代終末期(2世紀末〜3世紀前半)の積石塚墳墓群で、萩原1号墓・2号墓の2基から成る。両墓とも円形の墳丘に突出部を持つ特異な形状(前方後円形の萌芽)を示し、埋葬施設は当初「竪穴式石室」とされたが、現在は「石囲木槨」であったと考えられている。学界では、この石囲木槨という構造が奈良県のホケノ山古墳(纒向型前方後円墳の代表例)の主体部構造と類似することから、萩原墳墓群を前方後円墳成立過程の原型・先駆けとみる説が提示されている。国指定史跡「鳴門板野古墳群」を構成する主要遺跡の一つであり、東部瀬戸内海沿岸における首長墓の変遷(弥生末〜古墳時代前期、約200年間)を連続的に追える点で学術的価値が高い。ただし、ホケノ山古墳の築造年代をめぐる学界内の年代観の違いにより、両者の関係を単純な直接的系譜と断定することには慎重さが求められる。


1. 命題の構造

観点通説阿波説
前方後円墳との関係石囲木槨という構造の類似性から、纒向型前方後円墳(ホケノ山古墳等)の成立過程を考える上での重要な比較対象・先行例の一つ萩原墳墓群こそが前方後円墳の直接の原型であり、この地の首長がヤマトへ進出しホケノ山古墳を築いたとする、より踏み込んだ「東遷」仮説を採る
年代のギャップ萩原1号墓(3世紀第1四半期)・2号墓(2世紀末〜3世紀初頭)とホケノ山古墳の築造年代(学界内でも3世紀中頃〜後半など諸説)との間に、場合によっては1世紀以上の隔たりが指摘される年代のギャップは两者を直系の系譜として結びつける上での課題として認識しつつ、瀬戸内海の海上交易ネットワークを介した文化伝播の時間差として説明を試みる
被葬者像東部瀬戸内海沿岸の在地首長瀬戸内海を経由した海上交易を行っていた海人一族とみる説(阿波説側の推定)

2. 基本情報

項目内容
遺跡名萩原墳墓群(萩原1号墓・2号墓)
所在地徳島県鳴門市大麻町萩原
年代弥生時代終末期(1号墓:3世紀第1四半期/2号墓:2世紀末〜3世紀初頭、1号墓より古い国内最古級の積石墓)
種別積石塚(墳丘墓)。円形に突出部を伴う特異な形状
指定国指定史跡「鳴門板野古墳群」の構成資産
発掘経緯1号墓:1979〜1980年、県道12号鳴門池田線建設に伴う発掘調査(調査後に滅失)。2号墓:2004〜2005年、測量・トレンチ調査により基底石・列石を確認

3. 構造の詳細

3-1. 萩原1号墓

  • 径約18m、北側の突出部を含めた全長約27mの積石墓
  • 主体部は発掘当初「竪穴式石室」とされたが、現在は「石囲木槨」(石で囲った木槨)であったと考えられている
  • 出土遺物:画文帯神獣鏡、弥生土器(現在は徳島県立埋蔵文化財総合センターで常設展示)

3-2. 萩原2号墓

  • 径約20mのほぼ円形で、南側に約5mの突出部が延びる形状の積石墓
  • 1号墓より築造時期が古く、国内最古級の積石墓とされる
  • 出土遺物:内行花文鏡、円筒埴輪片、弥生土器片

いずれも「円形部+突出部」という平面形状を持ち、これが後の前方後円墳における「後円部+前方部」の構成の萌芽ではないかと注目されている。


4. 歴史

時期出来事
2世紀末〜3世紀初頭萩原2号墓築造(国内最古級の積石墓)
3世紀第1四半期萩原1号墓築造
1979〜1980年1号墓、県道建設に伴い発掘調査(調査後滅失)
2004〜2005年2号墓、測量・トレンチ調査により構造判明
現在国指定史跡「鳴門板野古墳群」の構成資産として保存

5. 前方後円墳の原型論――ホケノ山古墳との関係

萩原墳墓群が学術的に最も注目される点は、その主体部構造(石囲木槨)が、奈良県桜井市のホケノ山古墳(纒向型前方後円墳の代表例、纒向遺跡群の一角)の主体部構造と類似することである。

学界の一部では、この構造的類似性から、萩原墳墓群を定型化以前の前方後円形墳墓(纒向型前方後円墳)の原型または先行事例とみる見方が提示されている。ただし、この関係を評価する上では、以下の点に注意が必要である。

  • ホケノ山古墳の築造年代については学界内でも諸説あり、年代観によっては萩原墳墓群(2世紀末〜3世紀前半)との間に1世紀以上の隔たりが生じる可能性が指摘されている。
  • したがって、両者の関係は「構造的な類似性・先行性」を示すものであり、直接の系譜関係(萩原の集団がそのままホケノ山古墳を築いた)を実証するものではない。この点を混同しないことが重要である。

阿波説(kohun-jinjya氏等)では、この構造的類似性をさらに踏み込んで、萩原墳墓群を築いた瀬戸内海の海人一族がヤマトへ進出し、ホケノ山古墳を築いたとする仮説を提示しているが、これは考古学的に実証された学説ではなく、阿波説側の解釈である。


6. 阿波説における意義

6-1. 前方後円墳成立過程における阿波の先行性

萩原墳墓群の年代(2世紀末〜3世紀前半)は、畿内の纒向型前方後円墳群よりも早い、あるいは同時期とされることから、阿波説では前方後円墳という墓制の形成に阿波の首長層が先駆的に関与した、あるいはその起源地であったとする議論の重要な物証として位置づけられる。

6-2. 鳴門板野古墳群としての連続性

萩原墳墓群は、西山谷2号墳や天河別神社古墳群等とともに「鳴門板野古墳群」を構成し、弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて約200年間、東部瀬戸内海沿岸の首長墓が連続的に築かれた過程を追える点で、通説の考古学からも高く評価されている。この点は阿波説・通説の双方が共有する評価であり、対立点ではない。

6-3. 海上交易ネットワークの物証

出土した画文帯神獣鏡・内行花文鏡は、瀬戸内海を介した交易・交流ネットワークの存在を示す物証とされ、阿波説ではこれを阿波忌部・海人族の広域活動の証左として位置づける。


7. 関連神社・関連氏族

鳴門板野古墳群の構成遺跡

関連氏族


8. 現地情報

  • 所在地: 徳島県鳴門市大麻町萩原
  • 出土品の所在: 徳島県立埋蔵文化財総合センター(画文帯神獣鏡等を常設展示)

9. 参照ブログ・Web資料

kohun-jinjya系

  • kohun-jinjya「【阿波の古墳を行く!】前方後円墳の原型といわれる古墳が阿波にあった!『萩原墳墓群』」(出典)

外部一般資料

  • Wikipedia「萩原墳墓群」
  • 鳴門市「国指定史跡 なるといたのこふんぐん 鳴門板野古墳群」(出典)

10. 史料

発掘調査・測量調査

  • 1979〜1980年発掘調査(1号墓、県道建設に伴う)
  • 2004〜2005年測量・トレンチ調査(2号墓)
  • 出土品:画文帯神獣鏡(1号墓)、内行花文鏡・円筒埴輪片(2号墓)

11. 関連ノート(Vault内)

鳴門板野古墳群・阿波考古学

阿波説総合


12. 留保(中立的併記)

注意

  • 萩原墳墓群の構造(積石塚・突出部・石囲木槨)と年代は発掘調査・測量調査に基づく考古学的事実であり、確度は高い。
  • 「前方後円墳の原型」という位置づけは、主体部構造(石囲木槨)がホケノ山古墳と類似するという学術的知見に基づくが、これは構造的な先行性・類似性を示すものであり、萩原墳墓群の集団がホケノ山古墳を直接築いたという系譜関係を実証するものではない。
  • ホケノ山古墳の築造年代には学界内でも諸説あり、年代観によっては萩原墳墓群との間に1世紀以上の隔たりが生じうる。この年代のギャップは前方後円墳原型論を評価する上で無視できない課題である。
  • 「瀬戸内海の海人一族が萩原からヤマトへ進出しホケノ山古墳を築いた」とする説は、kohun-jinjya氏等のブログに基づく阿波説的解釈であり、考古学的に実証された学説ではない。
  • 本ノートの evidence_type は “archaeological_evidence”、confidence は 4(構造・年代の考古学的事実は確実性が高いが、ホケノ山古墳との系譜関係の解釈には学界内でも幅があり、阿波説側の東遷仮説はさらに推定を重ねたものである)。

※本稿は「鳴門板野古墳群」の起点となる遺跡として、前方後円墳成立過程における阿波の位置づけという観点から作成された。