弘文天皇

要旨

弘文天皇(大友皇子)は天智天皇の子で第39代に数えられるが、実在・在位・「弘文天皇」呼称はいずれも記紀・通説に基づく一般日本史で、漢風諡号は明治3年の追諡である。阿波説に固有・独立した論拠はほとんどなく、その扱いは壬申の乱の舞台を阿波(吉野川北岸一帯)に比定する説のなかで、敗者・近江朝側の人物として現れるにとどまる。大津宮・山崎・粟津の鳴門比定はいずれも天武天皇ノートの壬申の乱地名比定からの派生であり、本ノートはそのスタブ的整理である。

1. 概要

  • 読み: コウブンテンノウ
  • 諱: 大友皇子(オオトモノミコ)。母方にちなみ 伊賀皇子(いがのみこ) とも呼ばれる
  • 漢風諡号: 弘文天皇(明治3年(1870年)に追諡。歴代に加えられたのは近代以降で、生前・古代に「弘文天皇」と称された事実はない)
  • 代数: 第39代
  • 父: 天智天皇(第38代)
  • 母: 伊賀采女宅子娘(いがのうねめ・やかこのいらつめ)
  • 生没(通説): 大化4年(648年)〜天武元年(672年)。壬申の乱で叔父・大海人皇子(天武天皇)に敗れ自害。
  • 登場文献: 『日本書紀』『懐風藻』

史料的性格と「天皇」即位の論点

通説では、天智崩御(671年)後に大友皇子が政権を握ったが、翌672年の 壬申の乱 で叔父・大海人皇子(天武)に敗れて自害した。大友が実際に即位していたか(「弘文天皇」として在位したか)は、近代まで論争があり、明治3年に追諡されて初めて歴代天皇に加えられた。この実在・経緯はいずれも記紀・通説に基づく一般日本史であり、阿波説に固有の論拠ではない。

2. 阿波説における位置づけ

弘文天皇(大友皇子)について、阿波説に固有の独立した論拠はほとんど存在しない。阿波説における大友皇子の扱いは、もっぱら 壬申の乱の舞台を阿波(吉野川北岸一帯)に比定する説 のなかで、勝者・大海人皇子(天武)の 対戦相手=近江朝側の人物 として現れるにとどまる。すなわち大友皇子固有の阿波伝承・祭祀地・地名比定があるのではなく、彼が拠った拠点や終焉地が、天武・天智ノートの壬申の乱比定から派生的に位置づけられている にすぎない。

阿波説(岩利大閑『道は阿波より始まる』、awa-otoko’s blog ら)が大友皇子に関連づける比定地は次の二点である。いずれも壬申の乱の地名比定の一部であり、詳細・全体像は 天武天皇 の「壬申の乱:通説地名と阿波比定地名の対照」表を参照。

論点通説阿波説の比定
大友皇子軍が拠った「淡海の大津宮」近江大津宮(滋賀県大津市)鳴門市大津町木津野/撫養町木津(→天智天皇 論点1)
山崎(大友皇子自害の地)京都府大山崎鳴門市撫養町山崎(鳴門IC付近)
粟津滋賀県大津市膳所付近鳴門市里浦町粟津

→ 阿波説は、近江朝(大友皇子方)の本拠「淡海の大津宮」を鳴門市木津に置き、壬申の乱を 近江と大和を結ぶ広域戦ではなく阿波一国の内乱 とみる。大友皇子は、その内乱で敗れた近江朝側の主体として比定地の上に位置づけられる。ただし上記はいずれも 単一論者の地名語呂対応 に依拠し、宮跡・墓所を示す考古遺構や金石文の裏づけはない。

3. 系譜(通説)

天智天皇(第38代)
   × 伊賀采女宅子娘
        ↓
   大友皇子=弘文天皇(第39代)── 別名「伊賀皇子」

 ※ 叔父・大海人皇子=[[天武天皇]](第40代)が壬申の乱で大友皇子を破り即位
 ※ 天武の后・鸕野讚良皇女=[[持統天皇]](第41代)は大友皇子の異母姉妹(ともに天智の子)
  • 父は 天智天皇。大友皇子を破った 天武天皇(大海人皇子)は 父の同母弟、すなわち叔父 にあたる。
  • 別名「伊賀皇子」は母・伊賀采女宅子娘に由来する母方呼称であり、伊賀国に阿波説的な意味づけを与える資料は確認されていない(下記留保参照)。

4. 安房・房総側の傍系伝承(参考)

阿波(四国)とは別に、房総(安房・上総) には大友皇子にまつわる地域伝説がある(君津市俵田の白山神社など)。これは 高市皇子の東国伝承:いすみ・印西・流山に残る痕跡 が扱う房総の皇子伝承群の一部で、fusa ブログが整理する 房総ローカルの伝承 であり、阿波(四国)本貫論とは系統が異なる傍証である。

  • → 大野東人と二人の果安と大友皇子 千葉市緑区土気町 未知の駅 總フサ

5. 主要関連ノート

6. 留保

注意

  • evidence_type: established_historical(実在・壬申の乱での敗死・明治期の追諡=記紀/通説)と blog_hypothesis(大津宮・山崎・粟津の鳴門比定)の混在。confidence: 1。
  • confidence を 1 とした理由:天智・天武(ともに confidence 2)は、大津宮=木津の地名論・葛城神社社伝・大和三山=阿波三峰歌など、その人物に固有の阿波論拠を(仮説段階ながら)持つ。これに対し弘文天皇(大友皇子)には 阿波説に固有・独立した論拠が一つもなく、壬申の乱比定における「敗れた近江朝側の人物」という派生的位置づけに尽きる。よって兄弟ノートより一段低い確度とした。
  • 「弘文天皇」呼称は近代の追諡:生前・古代の称号ではない。阿波説資料も大友皇子を「弘文天皇」として独立に論じてはいない。
  • 「伊賀皇子」と伊賀国の阿波接続は無根拠:Vault 全体を検索しても「伊賀皇子」に言及する阿波説資料は皆無(0件)。別名「伊賀」を阿波説的な伊賀比定に結びつける典拠は存在せず、本ノートでもその連想は行わない。
  • 壬申の乱の阿波比定そのものが仮説段階:大津宮・山崎・粟津等の鳴門比定は岩利大閑および awa-otoko’s blog の地名語呂対応に基づき、考古学的物証を欠き、通説(近江・大和を舞台とする)と真っ向から衝突する。詳細・反証は 天武天皇 の参照資料を参照。
  • 房総の大友皇子伝説は四国外:君津市俵田などの伝承は房総ローカルであり、阿波(四国)本貫論とは別系統の傍証にとどまる。

※本稿は阿波説 Vault 内で確認できる材料のみに基づく。弘文天皇(大友皇子)固有の阿波論拠は乏しく、本ノートは壬申の乱比定(天武天皇)からの派生的整理にとどまるスタブである。