- 日常の食事
- 主食
- 携帯食
- 間食
- コジャ
- 主食調査
- 副食
- 調味料
- お茶
- 四季のメニュー
- 久見の場合
- 浦郷保育所の場合
- 晴れの食事
- 赤飯
- 巻き酢
- 粥
- 餅
- ダンゴ・マキ
- 祝儀、不祝儀の食物
- 本膳
- 嗜好品
- 酒
- 甘酒
- 焼酎
- ビール・麦酒
- 焼火山の巡遣使への献立
- 食生活の変容
日常の食事
日常の生活の中で、最も変化に境界線の引きにくい分野は、衣食住の領域であろう。西ノ島においても昭和三〇年代を堺に急激に変化していったのが、この部分ではあったが、また、その記録をとどめていないのも衣食住であった。文献にとどめてある記録から、我々の食事の変化の粗筋を述べてみたい。
主食
明治二九年「隠岐国概況取調書」という行政の調査書によると「・・島後地方は米麦をもって常食とし、島前地方は米・麦・甘藷を常食とす。しこうして沿岸地方は山村より幾分の上等飲食をなし飲酒等もしたがって多し。その常食物の歩合は左の如し。島後は米七分・麦三分。島前は米四分・麦三分・甘藷三分・・」とある様に、島前ではイモも主食に入っていたのである。明治末期の米の生産量は西ノ島で一人当たり五勺程度であり、その量ではとても日常の食事に具することはとても不可能であったろう。
つまり米はハレの日(盆・正月・祭・祝い・不祝儀などの日)の特別な主食としてあった。その辺の事情を「隠岐島の民俗」(昭和四八年現在)から引用紹介する。
米飯
「米はわずかしか作らず、しかも一部落にある田圃全部が某家一戸の所有田であったという所もあり、そのようなところでは、小作をするか、あるいは消費する米すべてを購入する必要があった。かつては半農半漁(現在では二農八漁)といわれた豊田でも、半年分は米が 、あったが、あとは安来米を購入したという。従って、大ダンナと呼ばれるほどの家は別として、ほとんどの家が米皆無の麦めし、やや米に恵まれた家で、米一割入りの麦めしといった日常の食生活で、いわば米はハレ用の食料であった。・・米をわずかしか消費しなかった頃は、麦、イモをもっぱら常食していて、米を食べるのは正月、三、五、九の節句、二十三夜、大山さん、氏神祭のときぐらいであった。(仁夫)。米を病人に食べさせると、薬になるともいわれた(宇賀)いったいにイモで腹の下 ごしらえをして、麦で押えるという主食の食べ方をしたのだが、村で唯一のダンナと呼ばれる家は、そのような時代でも全部米の飯であった(崎)。また、船に乗ったときは、三食とも米が多く入った御飯を食べた。仕事がえらいので、そうしないと力がでないという(多沢)」
麦飯
「麦はたくさん作った。大麦と小麦とがあり、前者は麦めしに、後者は粉にしたり、麹に作ってエンソ(味噌・醤油)に仕立てるのに使う。他に小量ではあるが餅麦がある。これは外観は紫色で粉は白色。ひいてオロシでふるって、こねてゆがくと、餅のように粘りのある団子ができた(三度
)。大麦は収穫してから、まずカラ竿で叩いて、オロシでおろしたものを、唐臼で搗く。三回搗かねばならぬなど、かなりの力仕事なので、おもに嫁が搗き、すわっていてイレボウでかき混ぜるのは年寄りの役であった(薄毛)・・大麦を一ぺん火にくぐらせて、ソウキに打ちあけて汁をとり、新しく再び水を入れて、一升の麦に米二合くらいを入れて煮る。ソウキに取った汁は、もったいないので畑仕事のときかぶる手拭いやユカタの糊に利用する(物井)。家によっては麦だけの家もあり、さらに麦だけではもったいないといって稗を混ぜる家もあった(仁夫)」
普段の日は、この様に麦もしくはイモ(甘藷)が主食の大半を占めた。
イモ(甘藷)
「島で単にイモといえば、甘薯のことで、麦作の前にイモを作る。以前はどこの家でもたくさん作って一年中食べた。収穫後は生のまま貯蔵するほか、イモカンピョウに加工してたくわえた。生のイモを収納するイモグラは、昔はイロリの近くの床下に、スクモ(籾殻)を敷いて、そこに置く方法をとったが、その後、戸外に横穴(入口は四〇~五〇cmくらいの角形にし、奥は広く掘る)を作り、中に藁を敷き、イモを置いてから籾殻でおおう。イモグラはすべて個人持ちであった(全域)イモカンピョウはイモカンペイとも、単にカンピョウと
もいう。洗ってから薄い輪切りに切って、その一枚一枚をブリキで作った穴アカシで穴をあけ、紐を通して三~四日干す。ゆでてから以上のようにすると、とりわけ甘味がでる(物井)・・丸のまま洗って、羽釜にコザキや板に穴をあけたものを伏せて、その上に甑を載せ、この中に入れて蒸すか、五升釜に水とイモを入れてゆでるかして食べる(全域)カンペイ団子も作る。ナマのイモを春のきつい光で干して、唐臼で粉にし、水でこねて沸騰した湯に投じて
、引き上げたものを黄粉をまぶして食べる(物井)手間がかかるのでたまにしか作らなかったが、シェー団子もあった。ブリキ板にプスプスと穴をあけた、大きなおろしようのものを自家製で用意し、これでイモをすって、水で洗い上げ、でん粉をこして取り、かわかして粉にしたも
のを、蒸したイモと練り混ぜ、団子にしてウマガタリの葉を両面につけて蒸して食べる(三度)
」
イモに関しては前述の「隠岐国概況取調書」に次の様な伝承が記述されている。「・・知夫里島多沢の里に往時大空藤助と云うものあり諸国を回歴したる際薩摩より甘薯の種子を得て帰るこれ隠岐国に甘薯あるの始なりと云う現今の戸主を大空甚八という。藤助五代の孫なり今尚藤助の遺物負ひ櫃叩き鐘及び富士山の石竹生島弁天の像等を蔵せり。」つまりイモは島前から始まったとされているのである。それと現在でも島前では「芋代官の碑」というのが多く見受けられる。これは大森代官井戸平左衛門が薩摩から種を持ち帰り皆に植えさせたという史実を元にしている。いずれにせよ、島前でのイモは主食として重宝がられたことがわかる。
昭和二六年の調査においても米飯が中心となっているわけではない。
「高齢者調査表集計表」昭和二六年(一九五一)黒木村
(表1挿入)
「黒木村長寿研究」第二報 昭和三十二年(一九五七)(六〇才以上)
(表2挿入)
米飯がほとんどを占めるのは昭和三〇年代中頃からの事と思われる。
その他
粥
ふだん食べる粥は、麦めしの水分を多くしたていの麦の粥もあったが、たいていは他になにか混ぜ入れて作った。小麦の団子や蕎麦を切って入れたり(崎)、シイラをコゴメといって、これの粉の団子も入れた(物井)。イリコを水に入れて、煮立ったらイモや和布を入れて、お 粥にしても食べた(薄毛)
混ぜ飯
米を多く食べるようになってからも、いろいろのものを加えてたいた。自生するコゴネをとってきてたき込んだり、和布を刻んで、御飯の蒸し上がる前に入れ、塩を振ってからむらして掻き混ぜた、和布御飯もよく作った(豊田)。加える具がよいものになると、御馳走と しての混ぜ御飯となり、来客の折やモノビ(特別の日)にセンタ、サザエ、鮑などを熱湯をかけてはがし、米と混ぜて炊き上げたり、人参、大根、野焼き、椎茸、昆布などを細かく刻んで、だし汁、醤油とともに入れてたくものもある(豊田、宇賀)加える具は他に干し大根、揚げ、カマボコなど 任意に入れる。
蕎麦
メイタとメン棒を作っておき、平生もよく打って食べた。ネギや胡麻、海苔などをかけて、ダシ汁で食べる。(崎)蕎麦粉を練ってのし、切って塩味で煮たのをニゴミといって、小麦粉でも作った。大根を千切りにして醤油味の汁にして、蕎麦を切って入れたものをデエコ
、ソバといった。蕎麦粉を熱湯で練った蕎麦のネリコもよく作った。( 仁夫)。ネリコを形つくって、中に黒砂糖をアンに入れて、アブリコで焼くヤキモチ
は、夜食用にした(物井)。
赤児の捕食
米の粉をいって、篩(フルイ)でふるって、沸騰した湯を入れて、砂糖で味付けしてさましたものを与えた(物井)
焼餅
焼餅は明治、大正の頃から戦前まではよく焼餅を作ったが、粟、稗、麦、などで作るもののうち粟で作ったのが一番いいという(多沢)
携帯食
山などに行くときには、コウリやミツに麦飯を入れて、味噌漬やコジョウユを添えて携帯した(仁夫)。ヤキメシといって、握り飯にコジョウユをつけて焼き、サンショウの葉や和布の芯をつけたものはおいしい携帯食として好まれた(豊田)。麦飯をツクネ(ムスビ) にして、手拭の端に包んで行くこともあった(薄毛)。学校の弁当には、親の使っている手拭に蒸したイモを入れて行ったり、昭和の時代に入って、米をいくらか多く食べるようになると、麦と混炊する米の、たき上がりを混ぜないで、米のところをすくって持って行った(薄毛、豊田)
間食「コジャ」
きつい仕事をする頃には、三度の食事の他にコジャといって軽食をとる。朝飯(あさはん)の前にひと仕事をするので、仕事を始める前にチャノコをとり、朝飯と昼飯(ちゅうはん)の間にアサコジャ、昼飯と夕飯(ゆうはん)の間に晩コジャと三回食べる。このほか仕事が夜遅くまで及ぶ時には夜食を食べる。下記は昭和の初め頃の某家の献立である。(崎)
(表3挿入)
「黒木村長寿研究」第二報 昭和三十二年(一九五七)(六〇才以上)
間食
(表4挿入)
副食
魚介類「海藻」
昔は海苔は自由にとってよかった。今はスを立てるのでおのずととってよい場所が決ってくる。海苔はまずソウタテ(スを仕掛ける)をしておき、そこに付く海苔を、コサゲといって、海苔をこそげ取る道具で掻き取る。これを家に持ってきて、細かく切って海水で洗い、海苔ブネに水を張って、型に海苔簀を付けたものに海苔を薄く広げてつけ、干す。以前は今の市販のものよりは大きかった。これを一〇枚単位位にしてオヤカタに上げたりした(物井)別に玉海苔も作るが、これは塩っぱい。採取した海苔を丸めてから平たくし、真中に藁を通 して軒下に下に下げて干し、使うときは水に入れて柔らかくする。正月の雑煮には欠かせぬものとされている(全域)
肉
昔はなんの肉でも、肉のことをウシといった。牛が針をのんだり、崖から墜死したりしたのは、肉が新しくてよいといった。鶏や鴨もスキヤキにして食べた(崎、豊田)
「汁」
味噌汁は寒いときのほかは、ふだんあんまり作らなかった。味噌汁はイリコを煮出した汁に、汁味噌をといて入れ、海藻や野菜をその時々に応じて入れる。一二月頃に長くなったソゾを採って汁の実にする。火の止めぎわに入れて食べるが、おいしいので食べすぎぬようにしないと、油が多くて頭が痛くなるという。保存があまりきかず、二日ともたない。水に浮かして置かぬとすぐ焼けてしまう(物井)ゴジルもちょっと御馳走を食べようか、というときに作るが、手間がかかるのであまり作らない。味噌汁の中に小麦粉を練ってちぎって入れた汁団 子も、寒いときに捕食としてよく作った。山芋をカガツですって、ダシでのばすトロロもたまに作った。和布蕪のトロロもあって、これはかぶを細かく包丁で刻んで湯をかけ、醤油で味をつけて食べる。干したメカブを叩いても作る(物井)
おかず
「おひたし」
菜、野性の芹をゆでて醤油をつけて食べたり、イヌビユをヒの葉といって、お盆の仏前に供えるものとしていたし、平生もゆでておひたしに食べたが、最近は食べなくなった。(仁夫)なお、和布、岩海苔、カジメ、サザエ、ニナなどをたいて抜いたものの酢味噌あえや、茗荷の茎を刻んで酢味噌であえ、シイラなどの魚と混ぜあえたものなどを作る(薄毛)
「たきもの」
野菜をイリコのだしでたき、味噌で味付けしたものは昔も今も変らず作る。例えば大根と昆布を煮たり、荒目の干したものを水に戻してたき、水に煮だして渋味を取り、刻 んで油でいためてからたく。夏には南瓜もたいた(物井)ハバといって、海苔のようにオカに生えているのを取って、ダシを入れてたいたり、焼もする(仁夫)
調味料
納屋の横のエンソ(塩気のあるもの・味噌・醤油など)小屋を作って、味噌、醤油、漬物などを貯蔵しておく(崎)
「味噌」
味噌にはなめ味噌と汁味噌とがあり、後者は辛味噌ともいう。汁味噌は前は三年味噌がおいしいといったが、この頃は白味噌がよいといって、半年ごとに作る家が多くなった。麹も昔は麦だけであったが、今は米のみを使う。汁味噌はまず麦でハナ(麹)を作る一方、大豆をかしてたく。このとき煮汁が多い目になるようにし、豆を搗くときこの汁を差していく。ボロボロの味噌にならぬように。麹とたいた大豆と塩とを合わせて唐臼で搗く。こ れを大きなバンドに入れて貯蔵する。バンドには一斗、三斗、四斗と各種あった。湯に味噌をとかして牛にも与えるので、大量必要であったため、四斗バンドを三本くらい作った(仁夫)
醤油
醤油を作るには、まずハナ(麹)をねかす。大豆をホ-ロクでいってひき割って、すでにいってあるからさっと蒸し、これを綺麗なむしろに広げて、その上を「雨降り」と呼ぶ木の葉(ネバの木)でおおっておく。ねる時期によい八月初旬ごろであると、一晩もすると真っ青になるので、ハナ一升に塩五合、水一升の割りに混ぜ合わせて、醤油桶に計って入れておく。翌年の同じ頃に簀を立て、ひしゃくで汲んでたき、ひと煮立ちさせたものを瓶に入れておいて使う。こし糟は灰をまぶして肥料にし、麦蒔きの下に敷く(薄毛)
酢
大麦でハナを作り、ハナ三升に水三升、ハナと同種の麦五合とをハンドに入れてねかし、暑いときには一週間、他のときには二週間もすれば酢になるので、晒でしぼって容器にとって使う(崎)。橙を切って晒布に包んで手でしぼって作ったり(物井)、酢酸を買っても使った。
ダシ
鰹以外の魚を使っていても、ダシ用に加工するのをカツオにするという(崎)アゴ、鰺、鰯をさっとゆがいて、天日に当てて干したものをイリコといい、ダシに使う(全域)
飲み物の事
現在の情況はよく解らないが、昭和三二年には次のような面白い調査があった。
以下の表は黒木村が長寿の村として脚光をあびた時に行った様々な食生活の調査の一部であり、六〇才以上にアンケートを行った。
「黒木村長寿研究」第二報(一九五七年)
(表5挿入)
四季のメニュー
久見の場合
以下のメニューは大正の終わりから昭和一〇年代にかけて隠岐島(島後の久見)で作られていたものである。これを直ぐに西ノ島にあてはめる訳にはいかないが、少なくとも一般的家庭の片鱗はうかがえると思われるのでここに揚げておく。しかしこのメニューでさえも久見では上の階層に属する家なので、その辺もある程度割り引いて考えなければならない。『島根の食事』から(表6挿入)
浦郷保育所の場合
さて、これを現代と比較するために「一九九一平成三年一一月 西ノ島町学校給食」をあげると
(表7挿入)
自給自足体制が崩れると、それまでは労働に依存していたものが、貨幣に依存することに変わり、食品も商店もしくは移入物に依存する様になる。そこで商店の依存度が高くなってくるのであった。
食事の原料も自給物から商品に変わり、それに連れて加工品が多くなってくる。広い範囲から集められた食事の商品は季節の物さえ忘れさせてくれるほど広範囲になる。おかずのメニューは必然的に多くなり、今までのものは、和食というよりも郷土食として位置付けられる事になる。日常は和食・洋食・中華の混合であり、それが普通とされているのが現在であろう。それに連れて調味料も、味噌・醤油・塩だけであったものからソース・胡椒・マヨネーズ・ケチャップなど多種にわたってきた。最も変化したのが主食であろう。隠岐島特に島前では一般的には米・麦・甘藷が主であったが、ほとんどが米食を中心とすることになり、朝食などはパン(小麦)場合も珍しくなくなってきた。しかし、昭和三十年代中ごろまでは混食(米と麦の混合)が一般的であった。食事は何よりも腹いっぱい食べられるのがよしとされていたのが、栄養のバランスを中心に献立を考える様になってきた。この傾向は特に学校給食に顕著である。
わが国でパンが製造販売されたのは明治三五年といわれるが、あんパンのような菓子パンが主流であり、食事として考える者は少なかったといわれる。そのせいか菓子パンは食べても食パンは普及しなかった。そのパンが主食として食卓にあがるのは戦後からである。食パンの先鞭を付けたのは学校給食であった。給食でお馴染みとなったコッペパンは進駐軍の放出メリケン粉で作られ、全国の児童に配給されたのがはじまりである。以来学校給食には欠かせないのがパンであった。西ノ島では昭和二四・五年頃からパン製造は行われているがやはり菓子パンが中心で、食事として普及するのは給食の開始された昭和三九年以降のことと思われる。パン食に欠かせないバターやチーズも、老人の間では牛くさいと毛嫌いする者もいたようであるが、日常の食事に調味料として利用されるようになると次第に慣れていったようである。しかし、肉体労働には不向きでパン食では力が出ないという者も多い。また、近年では島内の喫茶店でも朝はモーニング(パン定食)が一般化するようになった。店頭に並ぶ数多くの種類、売れ行きをみても、パンは日常の食事には欠かせないものとなっているようである。喫茶店でモーニングと命名された主食をパンとした洋風定食は、一般家庭の食卓形態をも物語っている。つまり、朝の食事であるということ、飲み物はコーヒーか紅茶であることなどが特徴である。主食としてのパンが普及したといっても、現段階では昼食・夕食までもパンが主流になったわけではない。
昭和三三年にはインスタントラーメンが発売された。これがすぐに西ノ島に普及したのではないが、以後徐々に、商店から手に入れてすぐに口に入る食品の代名詞としてインスタントラーメンはあった。昭和四〇年代には各家庭に冷蔵庫が広まるにともなって、生鮮食料品の長期保存が可能になる。それはレトルト食品・冷凍食品の発売と相まって現在ではそれをファーストフード(手間をかけずに、短時間で食べられる食品)と呼ぶ。短い家事時間を効率よく切り盛りする必需品として、特にご婦人方には重宝がられている。
家庭の食事ともいいがたく、また晴れの食事とも確定しがたいものが、旅館・食堂・レストラン・寿司屋などの外食である。元は観光客に対応する必要から徐々に普及したのであろうが、地元の人にとっても利用されているのがこの方面の食事であった。旅館などでは晴れの食事を出す場所として観光シーズン以外にも賑わうが、食堂・レストランは主に日常の家庭料理の息抜きの場所として親しまれている。この外食は和食・洋食・中華と明確にメニューの区別があり、それが家庭料理のモデルとして一層メニューを豊富にする役目を果たしていると思われる。
晴れの食事
今までは日常の食事であったが、晴れの日(祝儀・不祝儀・祭の日)はご馳走の出る日という以上に特別であった。その種の資料に乏しいのではあるが、民間資料からある程度はうかがう事も可能である。『隠岐島の民俗』から、そのメニューを引用する。
コワメシ(赤飯)
モノビ(特別の日)にたくという。三度では氏神さんの祭りには、その年に生まれた子のいる家で、麦の甘酒と赤飯をたいて近隣や親戚に配る。他に盆、節句、トシイワイなどにたく。 「鮓」 押し鮓、鮓めしを型で抜き、モロブタに並べて、一つ一つの上に卵焼き、デンブ、ショウガなどを載せて飾る。昔は春菊の葉も載せた(仁夫、物井)
巻き鮓
芯に椎茸、卵焼き、デンブなどを入れて海苔で巻く。イカで巻くこともある(崎)
バラズシ
モロブタよりこまい桶に、野菜や貝などを煮たものを混ぜた鮓飯を入れ、イサキ、鯵などの魚を三枚におろして酢に漬けたものを上に張った(豊田)
粥
ふだんの麦の粥などと違って、ハレの機会には上等の(タダ米の混合率の高い)粥を御馳走の一つとして食べた。三度ではシモツキ粥といって、米に小豆を入れた粥に蕎麦を切って入れた粥(ネゴミ)を作り、霜月の家の大将(戸主)の干支の日に、大きな鉢やハンボウに入れて親 戚に配る。また、正月と五月一六日には、トキガユといって、タダ米ばかりの粥を作って仏様に上げ、人々も食べる(仁夫、崎)。仁夫では男女が寄って粥を煮て会食した。亥の子の日にダイコ粥といって、大根を細かく切って入れた粥を作り、餅を入れて食べた(多沢)
餅
正月をはじめ、三月、九月、氏神祭、田植のとき、四二才、六一才、八八才、のトシイワイのときなどに餅を搗く。ボタモチは刈り上げのときつくる(物井)。他に祝儀、不祝儀の機会にも餅を搗く。これらのうち、正月の準備のため、暮れに一番大量に搗く。糯米ばかりの餅のほか、各種の餅を、二~三斗は搗く。イレテと搗き手の二人で搗くが、米を蒸す者、餅を形づくる者など人手を要するので、親戚や近隣で仲間で搗くこともある(物井)。糯米にタダ米(粳米)を混ぜて搗くと、タダ米が粒のまざった餅ができ、これをアラカネ餅という。フキモ チは糯米、粳米半々ずつを粉にしてから蒸して搗くので、リキがない。 大豆をひき割って混ぜるとこうばしいといわれた。また、大豆を粉にして、蒸すとき入れると柔らかな餅ができるという。ズイキ芋も搗き混ぜると柔らかくなってよいといった。甘味がでてよいといってイモも入れる。黍はひいて団子にもするが、臼で搗きもする。粟はモチアワイを使う。バクモチといって、小麦粉、糯米の粉、蓮を混ぜて搗く餅もあり、これには蕎麦粉を入れることもある。これらの餅を全部で一俵くらい搗くとして、そのうち米のものは二斗、粟、稗、黍、バクモチの類のものが二斗の割りくらいに搗いた。正月の餅はイリコでダシを取り、餅を 入れた椀に注ぎ、上から丸海苔をかける(全域)。餅を小豆で煮たものをニナガシという(仁夫)。三月三日の節句には、米、粟、蓮を入れて搗き、のし餅にしてから四すみを切ってシノギ(菱形)に切る。これを屋内の神々や仏に供え、また三枚をオヤモト(嫁の実家)の神に供える(三度)
団子およびマキ
小麦を石臼でひいて、粉おろし(篩)でおろした(ふるった)粉で作る小麦団子は、日常補食として作るが、節句や盆などに作る団子類は米の粉も加えて作る。五月五日の節句にはマキを作る。糯米とタダ米を混ぜて粉にして、水でこねて団子にし、カタリの葉に包んでから蒸す。葉の色が変色したら蒸れたと判断する。五月の節句の場合はオマキも萱の葉を何枚か合わせて包み、藺でぐるぐる巻いた萱マキにする(物井)。あるいはカタリの葉一枚で巻いてから、萱の葉二枚で包む(三度)。餡を入れるものも入れぬものもある。田植や盆に はカタリの葉二枚を団子の両面につけたオマキにする(物井)ホオカムリとよぶ(多沢)。盆にはネジリ団子も作った。昔は小麦粉で、現在は糯米四にタダ米六の割合の粉をコネバチに水を差してこね、ネジリの形にして鍋でゆでて、とり出して黄粉をつけて食す(物井)。二〇年く らい前までは、モチ麦の粉でもマキを作った。萱に包んで五個、七個ぐらいづつにたばねてたく(仁夫)
祝儀、不祝儀の食物
地下に祝儀や不祝儀が生じると、地下の女達が集まって膳のしたくをする。普通は正月に一度使うくらいのカドの大クドも、このときは使って、豆腐を作ったり、餅搗きの用意をしたりする。豆腐はたくさん作って、袋に入れて井戸に吊しておく(薄毛)。
本膳
これは高膳で、御祝儀や氏神講のときなどに用意される献立は、次のとおりである。膳の右手前はオツケ椀で、豆腐、ネギの入った味噌汁に上から岩海苔をかける。左手前は御飯を入れた椀、二合半くらいの量を高盛りにする。真ん中はツボでゴボウ、人参、カンピョウ、豆 腐、センタなどを采の目に切り、油でいためてから醤油で味付けをし、海苔や胡麻をふりかける。右奥はムコウツケ、漬物やナマスを盛る。左奥はフィラ(ヒラ-平皿)、ワラビ、大根、人参、ゴボウ、豆腐、コンニャク、昆布を大きく切って煮しめて、器に盛つけるときは、大きい長方形の豆腐を上からおおうように載せる。 煮物の具の品数が多いほど豪華とみられ、また奇数になるようにした(全域)。膳のフィラには手をつけずに、添えてある竹皮に包んで各自持ち帰ることになっていた。現在はフィラには魚や果実を型どった砂糖や菓子を盛るので、紙に包んで持ち帰る(全域)。本膳が出る前に、餅 入りの吸物、刺身、海の肴の盛り合わせがでるので、取り皿に取っては食べる。六〇年前に某女が嫁に入ったときは、行ったヨ-サに御飯、ニコミ、汁、ナマスが出て、翌朝は汁とコウコと残り御飯、昼飯もありあわせを食べ、夕飯にツボ、フラ・オツユ、酢のもの、刺身が出て、豆腐を油で揚げて、その下に昆布を二つ盛り込んだものが出た(崎)
嗜好品
酒
米の酒も少しは作ったが、米の少ないところなので、失敗を恐れてあまり作らなかった。米の酒はまず御飯を蒸し、買った麹と混ぜて、こまい壷に入れて一週間もすると沸いてくるので、その中へ蒸した米をさまして混ぜ、米と同量の割合の水を混ぜ、蓋をしてさらに 一週間たったらふたたび沸く。これを三回繰り返す。一回ではイジ(辛味)が出ない。そのうち上のほうが澄んでくるので、竹の輪の簀を入れて汲み出す(物井)ドブ酒は戦前は作ったが、戦後このかた作らなかった(多沢)
甘酒(アマガユ)
現在でも、正月に作る。正月にはヤク落しといって、家族に四二、六一才の者がいると、皆が祝って来るので、このときは二斗ぐらい作ってふるまう(薄毛、三度)。甘酒を作る機会が、ちょうど寒い時期なので、しろうとでは麹がうまくいかないので、麹は 麹屋から購入する。餅を柔らかく煮て麹と混ぜてモロブタに入れておくとすぐできるが、糯米、麹半々の割では甘すぎるので、麹と米と一:二くらいにする(豊田)
焼酎
麦、甘薯、南瓜などで作った。作り方は皆同じである。このうち南瓜の焼酎の作り方を示す。麦のハナ(麹)を作り、南瓜はおかずにする程度の大きさに切ってゆでる。水を多い目に入れ、ゆで汁ごと(ここが肝腎)ハナと混ぜて三日ほど置いておくと沸いてくる。これをこして飲む。こしかすをオリという(崎)
ビール酒、麦酒
麦酒ともいう。ビール麦(大麦)を唐臼で二~三度搗いて白くし、洗って蒸してモロブタに入れて、ほやほやするくらいの温度にしておくと、二~三日から三~五日くらいで白いもやがつくので、手返しをする。熱が強いと真っ黒になってしまう。これでハナが でき上がり、麦を二升くらい蒸してこのハナと混ぜる。ハナが余分に入ったほうがおいしくできる。ハンドにこれらと水を混ぜて入れ、時々かき回しておくと沸いてくる。できのよいのはさらっと澄んでくる。中へ簀を入れてかい出して飲む(豊田、三度)
巡遣使の食事
島民の晴れの食事ではないが、幕府の高官が隠岐を巡視するに当たって、総勢四百人以上を引き連れて来島した時の資料があるので、ここに紹介したい。但し、このメニューは巡見使の一行の中に料理人十人とあることから、地元の住民が料理をしたのではなく、御付きの専門料理人がこれにあたった。
(表8挿入)
(表9挿入)
(表10挿入)
食生活の変容
少なくとも昭和三十年代くらいまでの島前の祭・祝い・法事などの日には、どの様な食事をしていたのかはある程度推測できるかと思われる。江戸時代から完全なる自給自足体制であった訳ではなかったが、ほぼそういう形ですべてのものが賄われていた。
「ご馳走」とは、盆・正月・祭など少なくとも戦前において飽食と多数のメニューと米飯の事をいったものであろう。それは、ハレの日の食事であった。盆歌の口説きに「盆が来たらこそ麦に米混ぜて、中に小豆をチラパラと・・」という文句も理解できよう。ハレの食事は日常の食事のほどは激変はしなかった。というのは、日常の食事の向上が目指していたのがハレの食事だったからである。そういう意味では食事においては毎日が祭・正月になったのである。日常の食事と異なることは、儀式の食事が現在でも「吸物をどうぞ」という口上に見られる様にハレの食事は大なり小なり一定の順序に従って献立が出されることになっていることであり、煮しめ・マキ・ツボ・寿司・ボタモチ・餅・団子などは依然としてハレの日のものとして意識されている。
巡見使の料理で見た様に、それは高膳に盛られてある。次に酒宴となり、いわゆる食事は本膳と呼ばれる。現在は住宅の変化と共に自宅での儀礼・宴会は少なくなり場所は旅館に任される傾向にあるが、昔ほどには格式ばって無いとしても、形式の片鱗だけはうかがえるのである。そして、食事だけでなく、衣装、住宅の飾り付けなどの伝統的な演出によって晴れがましい心持ちが醸し出されたのであった。
コメント
ログイン不要でコメントできます(お名前・メールは任意)。