『海東諸国紀』全文テキストデータベース
■■■凡 例■■■
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本テキストデータベースは、『海東諸国紀』〔申叔舟(朝鮮)撰、巻分けなし、1471年〕の全文テキストデータベースである。
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本テキストデータベースは、朝鮮史編修会編『朝鮮史料叢刊第二 海東諸国紀』(1933年)を底本とした。
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電子データ化に際し、原文の表記を次のように改めた。 1) 漢字は原則として新字体に改めた。新字体がなく、JIS第1・第2水準に旧字体(正字)も配当されていない漢字については、赤嶺守氏(琉球大学)作成の外字・記号対照一覧表に依拠し、同表の外字記号(半角数字1字と半角英字1字の組み合わせ)で表記した。同表にない漢字は、適宜同表に追加して同様の方式で表記した。 2) 割註部分は[ ]でくくり、右寄りの細註は{ }で括って表記した。 3) 本文中の置き字(文中の空白)は、これを無視し、空白をあけずに一続きの記述として表記した。 4) 項目の切れ目以外の改行は、これを無視し、改行せずに一続きの記述として表記した。改行は、項目名の末尾、文章自体の切れ目に限った。 5) 項目名や記述の冒頭が字下げで始まる部分は、これを無視し、字下げせずに第1字目から表記した。 6) 記述が丁を改めて始まる部分は、その前の記述との間に「-----」を挿入して示した。 7) 本文冒頭付載の地図(「海東諸国総図」「日本本国之図」「日本国西海道九州之図」「日本国一岐島之図」「日本国対馬島之図」「琉球国之図」「熊川薺浦之図」「東莱富山浦之図」「蔚山塩浦之図」)、および末尾の琉球国の項の「一語音翻訳」の部分は、テキストデータベースという制約のため本文中に収録できないので、別途、画像ファイル(JPEGファイル)として本テキストデータベースに添付した。該当部分については、本文中に「(*この部分は○○○.JPEGに収録)」と注記した。
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本テキストデータベースは、プレーンテキストのみで、それ自体としては検索機能を備えていない。本テキストデータベースを用いて語句検索を行う場合は、適宜、ワードプロセッサ、テキストエディタなどのソフトウェアに読み込んだうえ、これらのソフトウェアの検索・Grep機能等を利用されたい。また、本テキストデータベースを利用するために、新規に検索用のソフトウェアを開発することを妨げない。
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本テキストデータベースは、平成6~9年度文部省科学研究費補助金重点領域研究「沖縄の歴史情報研究」(領域代表者・岩崎宏之)における計画研究「環シナ海地域間交流史―中国江蘇・浙江・朝鮮―」(研究代表者・川勝賢亮)による成果の一部である。本テキストデータベースの作成は研究分担者である六反田豊(九州大学)を中心に行い、データ入力に際しては、押川信久君(九州大学大学院文学研究科修士課程学生)の助力を得た。また、画像ファイル作製については、横山伊徳氏(東京大学史料編纂所)・宮嵜洋一氏(九州大学)の助言・助力を得た。
■■■本 文■■■
そもそも隣国と交わり使者をやり取りし、風俗の異なる国を慰撫して接待するには、必ずその事情を知り、その後に礼を尽くすことができる。礼を尽くしてこそ、真心を尽くすことができるのである。我が主上殿下は、臣である(申)叔舟に命じて、海東諸国の朝貢・使節の往来に関する旧例、宿泊や食糧支給、接待の例を撰述させられた。臣は命を受けて畏れかしこみ、謹んで古い記録を調べ、見聞を参考にして、その地勢を図示し、世系の源流と末路、風土や好まれるものを略述し、我が国の応接の細則に至るまで、編集して書物となし、これを献上する。 臣の叔舟は久しく礼官を司り、またかつて海を渡り、自らその地に赴いたことがある。島々は星のように散らばり、風俗は著しく異なっており、今回この書を作るにあたっても、結局その要領を完全に得ることはできなかった。しかし、これによってその概略を知り、事情を探り、礼儀を酌み交わし、彼らの心を収めることができるであろう。 ひそかに東海の中にある国々を見ると一つではないが、日本が最も古くかつ大きい。その地は北は黒龍江の北に始まり、南は我が済州の南に至り、琉球と接しており、その勢いは甚だ長い。その当初は至る所で人々が集落を保ち、それぞれが国をなしていた。周の平王の48年、その始祖である狭野が兵を起こして誅伐し、初めて州郡を置き、大臣がそれぞれ領地を占めて統治するようになった。それは中国の封建制度に似ているが、それほど強い従属関係はない。習性は強悍で、剣や槍に精通し、船の扱いに慣れている。我が国とは海を隔てて向き合っており、これを慰撫して道を得れば礼をもって朝貢し、道を失えばすぐさま略奪をほしいままにする。前朝(高麗)の末期、国が乱れ政治が乱れた際、慰撫の道を失い、ついに辺境の患いとなった。沿海数千里の地は荒れ果てて草むらとなった。我が太祖(李成桂)が奮起し、智異山の東亭や引月、兎洞で数十回にわたり力戦して、ようやく賊は略奪できなくなった。建国以来、歴代の聖王が王位を受け継ぎ、政治は清く事柄は理にかなっており、内政はすでに隆盛を極め、外の属国も秩序に従い、辺境の民は安泰である。 世祖が中興し、数代にわたる泰平の世にあって、宴会や安逸が毒となることを憂慮し、天を敬い民に勤め、人材を抜擢し、共に数々の政務にあたり、廃れていたものを復興し、紀綱を修め明らかにした。夜明け前から衣を着て、日暮れに食事をとり、精励して政治を図り、統治はすでに行き渡り、名声と教えは遠くまで広まり、万里の彼方から海路を渡って来る者たちも、遠いからといって来ない者はなかった。 臣がかつて聞いたところによれば、夷狄を待遇する道は、外を打ち払うことにあるのではなく内を修めることにあり、辺境にあるのではなく朝廷にあり、武備にあるのではなく紀綱にあるという。それがまさにここで証明されたのである。(書経の)益の戒めに舜に対してこう言っている。「警戒して憂いのない時にも怠らず、法度を失わず、安逸に遊ばず、楽しみに耽らず、賢者を任用して疑わず、邪悪を退けてためらわず、道に背いて民の誉れを求めず、民を無視して己の欲に従わず、怠ることなく荒むことがなければ、四方の夷狄も王に服従するであろう」と。舜を君主としながら益の戒めがこのようであったのは、およそ国家に憂いがない時こそ法度が緩みやすく、安逸や楽しみが放縦に至りやすいためである。自ら修める道に少しでも至らないところがあれば、それを朝廷で行い、天下に施し、四方の夷狄に推し及ぼした際、どうしてその道理を失わずにいられようか。 誠に自らを修めて人を治め、内を修めて外を治めることができれば、必ず心に怠りなく、事に荒むことなく、その後にはじめて統治の隆盛が遠く四方の夷狄にまで達するであろう。益の深い意図はここにあるのではないか。 もし近きを捨てて遠きを図り、武力を極めて外の夷狄を事とするならば、ついには疲弊して天下が漢の武帝のようになるだけであろう。あるいは自身の豊かさを頼みにして贅沢を極め、外の夷狄に誇示するならば、ついには身を保てず隋の煬帝のようになるだけであろう。あるいは紀綱が立たず、将兵が驕り怠けて、みだりに強い異民族を挑発するならば、ついには身が殺戮と屈辱に遭い、後晋の石敬瑭のようになるだけであろう。これらは皆、根本を捨てて末端を追い、内を虚ろにして外を務めた結果であり、内がすでに治まっていないのに、どうして外に及ぶことができようか。「警戒して怠りなく、怠らず荒まず」という義に反しているのである。事情を探り礼儀を酌み交わしてその心を収めようとしても、どうしてそれができようか。後漢の光武帝が玉門関を閉ざして西域からの人質を断ったのも、やはり内を先にして外を後回しにする意図であった。ゆえに名声は中国に満ち溢れ、蛮族にまで及び、日月が照らす所、霜露が降りる所で、尊び親しまない者はいない。これこそが天に配する極めて大きな功績であり、帝王の盛大な美徳である。 今、我が国家は、彼らが来ればこれを慰撫し、その待遇を厚くし、礼意を尽くしている。しかし彼らは日常の扱いに慣れきってしまい、真偽を偽り欺き、至る所で滞在し、動けば数ヶ月を費やし、変化と詐欺は百の端にのぼり、谷底のように欲は尽きない。少しでもその意に逆らえば、たちまち怒りの言葉を発し、土地は絶え海に隔てられているため、その全容を究めることはできず、その情偽を詳しく調べることもできない。彼らを待遇するには、先王の旧例に照らし合わせてこれを鎮めるのが宜しい。そしてその事情や勢力にはそれぞれ重い軽いの違いがあるため、どうしても待遇に厚薄を設けざるを得ない。しかし、これらの細々とした事柄は、単に担当の役人の仕事に過ぎない。聖上が古人の戒めや歴代の失敗を鑑とし、まず自らを修め、それを朝廷に及ぼし、四方に及ぼし、外域に及ぼすことを念頭に置かれるならば、ついには天に配する極めて大きな功績を致すことも難しくはないであろう。ましてや細々とした事柄については言うまでもない。 成化7年(1471年)辛卯の季冬(12月) 輸忠協策靖難同徳佐翼保社炳幾定難翊戴純誠明亮経済弘化佐理功臣・大匡輔国崇禄大夫・議政府領議政・兼領経筵・芸文館・春秋館・弘文館・観象監事・礼曹判書・高霊府院君 {臣}申叔舟 拝手稽首し謹んで序す
海東諸国紀目録[凡例附] 海東諸国総図 日本本国図 日本国西海道九州図 日本国一岐島図 日本国対馬島図 琉球国図 日本国紀 天皇代序 国王代序 国俗 道路里数 八道六十六州[対馬島一岐島附] 琉球国紀 国王代序 国都 国俗 道路里数 朝聘応接紀 使船定数 諸使定例 使船大小船夫定額 給図書 諸使迎送 三浦熟供 三浦分泊 上京人数 三浦宴 路宴 京中迎餞 昼奉盃 京中日供 闕内宴 礼曹宴 名日宴 下程 例賜 別賜 留浦日限 修船給粧 日本船鉄釘体制 上京道路 過海料 給料 諸道宴儀 礼曹宴儀 三浦禁約 釣魚禁約 凡例 一、図の中の黄色の線は道の境界、墨色の線は州の境界、紅色の線は道路を表す。 一、日本紀ではその年号を用いる。 一、琉球紀では中国の年号を用いる。 一、道路には日本の里数を用いる。その1里は我が国の10里に相当する。 一、田の計測には日本の町・段を用いる。その方法は、中くらいの背丈の人の平歩で両足の距離を1歩とし、65歩を1段、10段を1町とする。1段は我が国の50負に相当する。 一、大酋長以下の者は非常に多いが、ここでは朝貢や使節の派遣を行う者について、その居住する州の下に記す。
海東諸国総図(*この部分はSOZU1.JPEG、SOZU2.JPEGに収録)
日本本国之図(*この部分はNIHONZU1.JPEG、NIHONZU2.JPEG、NIHONZU3.JPEG、NIHONZU4.JPEGに収録)
日本国西海道九州之図(*この部分はKYUSHU1.JPEG、KYUSHU2.JPEGに収録)
日本国一岐島之図(*この部分はIKI1.JPEG、IKI2.JPEGに収録)
日本国対馬島之図(*この部分はTSUSHIMA1.JPEG、TSUSHIMA2.JPEGに収録)
琉球国之図(*この部分はRYUKYU1.JPEG、RYUKYU2.JPEGに収録)
熊川薺浦之図(*この部分はSEIHO.JPEGに収録) 薺浦から金山を経て京城へ至るには、1日2息(休憩)のペースで13日の行程。大丘、尚州、槐山、広州を経て京城へ至るには14日の行程。水路では金海[黄山江から下って洛東江に至る]、昌寧、善山、忠州[金遷から漢江に至る]、広州を経て京城へ至るには19日の行程。熊川から薺浦までは5里。常に居住している倭人の戸数は308戸、男女老少合わせて1,722人。寺社は11。
東莱富山浦之図(*この部分はFUZANHO.JPEGに収録) 富山浦から大丘、尚州、槐山、広州を経て京城へ至るには14日の行程。永川、竹嶺、忠州、楊根を経て京城へ至るには15日の行程。東莱から富山浦までは25里。常に居住している倭人の戸数は67戸、男女老少合わせて323人。水路では梁山[黄山江から洛東江に至る]、昌寧、善山、忠州[金遷から漢江に至る]、広州を経て京城へ至るには21日の行程。
蔚山塩浦之図(*この部分はENPO.JPEGに収録) 塩浦から永川、竹嶺、忠州、楊根を経て京城へ至るには15日の行程。水路では慶州、丹陽、忠州、広州を経て京城へ至るには15日の行程。蔚山から塩浦までは30里。常に居住している倭人の戸数は36戸、男女老少合わせて131人。寺社は1。 成化10年(1474年)甲午3月、礼曹佐郎の南悌が三浦に兵糧を支給した際、火に付いた倭人が来て図を描いて去った。
海東諸国紀
日本国紀
天皇代序 天神七代 地神五代 人皇始祖 神武天皇:名は狭野。地神の末主である彦瀲尊の第四子。母は玉依姫[俗に海神の娘と称する]。庚午の年に生まれた[周の幽王11年である]。49年戊午に大倭州に入り、中洲の賊衆をことごとく討伐した。52年辛酉正月庚申に初めて天皇と号した。110年巳未に国都を定めた。在位76年、寿127歳。 綏靖天皇:神武の第三子。神武が崩御してからの4年間は兄弟が共同で国事を治めた。辛巳正月に即位。在位33年、寿84歳。 安寧天皇:綏靖の太子。元年甲寅。在位38年、寿84歳。 懿徳天皇:安寧の第三子。元年壬辰。在位34年、寿84歳。 孝昭天皇:懿徳の太子。元年丙寅。在位83年、寿118歳。 孝安天皇:孝昭の第二子。元年己丑。在位102年、寿137歳。 孝霊天皇:孝安の太子。元年辛未。72年壬午、秦の始皇帝が徐福を海に派遣して仙薬を求めさせ、徐福はついに紀伊州に至りそこに居住した。在位76年、寿115歳。 孝元天皇:孝霊の太子。元年丁亥。在位57年、寿117歳。 開化天皇:孝元の第二子。元年甲申。在位60年、寿115歳。 崇神天皇:開化の第二子。元年甲申に初めて璽剣を鋳造し、近江州の大湖を開いた。6年己丑に初めて天照大神を祭った[天照大神は地神の始主で、俗に日神と称し、今でも四方で共に祭られている]。7年庚寅に初めて天社・国社・神戸を定めた。14年丁酉に伊豆国が船を献上した。17年庚子に初めて諸国に造船を命じた。在位68年、寿120歳。この時、熊野権現の神が初めて現れた。徐福が死んで神となり、国人は今でもこれを祭っている。 垂仁天皇:崇神の第三子。元年壬辰。13年甲辰に天照大神が降臨した。23年甲寅に初めて伊勢国に斎宮を置いた。25年丙辰に初めて天照大神の宮を伊勢国に建てた。在位99年、寿140歳。 景行天皇:垂仁の第三子。元年辛未。13年癸未に諸国の人に姓氏を賜った。18年戊子に初めて諸国の名を定めた。在位60年、寿106歳。 成務天皇:景行の第四子。元年辛未に初めて州郡を定めた。3年癸酉に初めて大臣を置いた。5年乙亥に諸州が初めて稲を貢納した。7年丁丑に諸州の境界を定めた。在位61年、寿107歳。 仲哀天皇:景行の孫、日本武尊の第二子。身長は10尺。元年壬申。9年庚辰に初めて神楽を作った。百済国が初めて使者を派遣してきた。在位9年、寿52歳。 神功天皇:開化の五世の孫である息長宿禰の娘。仲哀が后として納めた。仲哀が没したのち国事を主導した。元年辛巳。5年乙酉に新羅国が初めて使者を派遣してきた。39年己未に初めて漢に使者を派遣した。在位69年、寿100歳。 応神天皇:仲哀の第四子。母は神功。元年庚寅。7年丙申に高麗が初めて使者を派遣してきた。14年癸卯に初めて衣服を制定した。15年甲辰に百済が書籍を送ってきた。16年乙巳に百済王の太子が来た。20年己酉に漢人が初めて来た。在位41年、寿110歳。 仁徳天皇:応神の第四子。応神が没して2年間は主がいなかった。癸酉正月に即位。55年丁卯に大臣の武内が死んだ。年は340歳で6朝に仕えた。61年癸酉に初めて氷室を造った。在位87年、寿110歳。 履中天皇:仁徳の太子。元年庚子に初めて大臣を4人置き国事を任せた。在位6年、寿70歳。 反正天皇:仁徳の第二子、履中の同母弟。身長は9尺2寸半、歯の長さは1寸で連なった真珠のようであった。元年丙午。在位6年、寿60歳。 允恭天皇:仁徳の第三子、反正の同母弟。元年壬子。在位42年、寿80歳。 安康天皇:允恭の第二子。元年甲午。初め允恭は太子を立てたが性質が悪かったためこれを殺し、安康を立てた。安康は即位すると仁徳の子である大草香王を殺し、その妻を取って后とした。3年丙申8月、大草香王の子である眉輪王が安康を弑逆した。安康の弟である大泊瀬稚武が兵を起こしてこれを討ち、眉輪は大臣と共に皆焼け死んだ。在位3年、寿56歳。 雄略天皇:允恭の第四子、安康の同母弟。すなわち大泊瀬稚武である。元年丁酉。22年戊午に丹後州余社郡の人が水江浦で釣りをして大亀を得たところ、化けて女となった。在位23年、寿104歳。 清寧天皇:雄略の第三子。元年庚申。5年甲子に没した。在位5年、寿45歳。皇女の弟が即位し飯豊天皇と号した。この年12月にまた没した。初め安康の乱の際、履中の孫二人が丹波州(あるいは幡摩州赤石郡)にいると言われていた。ここに至って皇子がいなかったため、諸州に姓を司る者を求め、小楯が彼らを奉迎して後継ぎとした。これが顕宗と仁賢である。 顕宗天皇:履中の孫、市辺押羽の第三子。元年乙丑。在位3年、寿48歳。 仁賢天皇:顕宗の同母兄、名は大脚。初め飯豊が没した際に顕宗に譲っていたが、ここに至って即位した。元年戊辰。在位11年、寿52歳。 武烈天皇:仁賢の太子。元年己卯。大臣の真鳥を殺した。性質は人を殺すことを好んだ。在位8年、寿57歳。 継体天皇:応神の五世の孫、名は彦主人。元年丁亥。16年壬寅に初めて年号を建て善化とした。5年丙午に正和と改元。6年辛亥に発倒と改元。2月に没した。在位25年、寿82歳。 安閑天皇:継体の第二子。継体が没した後2年間は主がいなかったが、ここに至って即位。元年甲寅[発倒を用いる]。在位2年、寿70歳。 宣化天皇:継体の第三子、安閑の同母弟。元年丙辰。僧聴と改元。在位4年、寿73歳。 欽明天皇:継体の長子[一説には宣化の長子]。元年庚申。翌年辛酉に同要と改元。初めて文字が作られた。12年壬申に貴楽と改元。仏教が初めて伝来した。3年甲戍に結清と改元。百済が五経博士と医博士を送ってきた。5年戊寅に兄弟と改元。2年己卯に蔵和と改元。6年甲申に師安と改元。2年乙酉に和僧と改元。6年庚寅に金光と改元。在位32年、寿50歳。 敏達天皇:欽明の第二子。元年壬辰[金光を用いる]。5年丙申に賢接と改元。3年戊戍に六斎日に経論を披覧した。その太子を殺した。6年辛丑に鏡当と改元。3年癸卯に新羅が来て西の辺境を討った。4年甲辰に大臣の守屋が仏法は不利であると奏上し、仏教を破壊し僧尼は皆還俗した。5年乙巳に勝照と改元。在位14年、寿50歳。 用明天皇:欽明の第四子[一説には第十四子]。元年丙午[勝照を用いる]。2年丁未に聖徳太子と蘇我大臣の馬子らが兵を率いて守屋を討った[聖徳は敏達の孫で用明の子である]。在位2年、寿50歳。 崇峻天皇:欽明の第五子[一説には第十五子]。元年戊申。翌年己酉に端政と改元。在位5年、寿72歳。 椎古天皇:欽明の娘。幼名は額田部。敏達が后として納めていた。元年癸丑。翌年甲寅に従貴と改元。百済の僧である観勒が来て暦本・天文・地理などの書を進上した。8年辛酉に煩転と改元。2年壬戍に初めて暦を用いた。4年甲子に初めて諸臣に冠を賜った。聖徳太子が十七条の法を制定した。5年乙丑に光元と改元。7年辛未に定居と改元。3年癸酉に大職冠が大和州高市郡で生まれた。8年戊寅に倭京と改元。3年庚辰に聖徳太子が卒した。6年癸未に仁王と改元。2年甲申に陰陽書が初めて伝来した。初めて僧正と僧都を置いた。この時、国中に寺が46、僧が816人、尼が569人いた。在位36年、寿73歳。 舒明天皇:敏達の孫、名は田村。元年己丑。聖徳と改元。6年甲午8月に彗星が現れた。7年乙未に僧要と改元。3月に彗星が現れた。2年丙申に大干ばつがあった。6年庚子に命長と改元。在位13年、寿45歳。 皇極天皇:敏達の曽孫の娘。舒明が后として納めた。元年壬寅[命長を用いる]。在位3年。 孝徳天皇:皇極の同母弟。元年乙巳[命長を用いる]。3年丁未に常色と改元。3年己酉に初めて八省・百官および十禅師寺を置いた。6年壬子に白雉と改元。在位10年、寿39歳。 斉明天皇:[皇極が復位]元年乙卯[白雉を用いる]。6年庚申に初めて漏刻を造った。7年辛酉に白鳳と改元。近江州へ遷都した。在位7年、寿68歳。 天智天皇:舒明の太子。母は皇極。名は葛城。元年壬戍[白鳳を用いる]。7年戊辰に初めて太宰師を任命した。8年己巳に大職冠を内大臣とし藤原の姓を賜った。藤原姓はこれに始まる。大職冠はまもなく死に、大友皇子[天智の子]を大政大臣とした。皇子が大政大臣に任じられたのはこれが始まりである。初め大納言3人を置いた。在位10年。 天武天皇:舒明の第二子、天智の同母弟。名は大海人。元年壬申[白鳳を用いる]。天智7年に天武が太子となり、天智が位を譲ろうとしたが、天武は辞退して出家し吉野山に隠れた。天智が没すると大友皇子が簒奪を謀り吉野を攻めようとした。天武は濃州・張州の兵を率いて京城に入りこれを討ち、ついに即位した。2年癸酉に初めて大中納言を置いた。6年丁丑に初めて詩賦を作った。11年壬午に初めて冠令を作り、国中の男子は皆髪を束ね、女子は皆髪を垂らすようにした。12年癸未に車を造り、銀銭を停めて銅銭を用いた。13年甲申に朱雀と改元。3年丙戍に朱鳥と改元。彗星が現れた。在位15年。 持統天皇:天智の第二女。天武が后として納めた。元年丁亥[朱鳥を用いる]。7年癸巳に町・段を定めた。中くらいの人の平歩で両足の距離を1歩とし、四方65歩を1段、10段を1町とした。9年乙未に大和と改元。3年丁酉8月に文武に譲位した。在位10年。 文武天皇:天武の孫、母は元明。元年丁酉。翌年戊戍に大長と改元。律令を定めた。4年辛丑に大宝と改元。3年癸卯に初めて参議を置き、東西に市を立てた。4年甲辰に慶雲と改元。3年丙午に初めて封戸を定め、斗や升を造った。在位11年、寿25歳。 元明天皇:天智の第四女。天武の子である草壁太子に嫁ぎ文武を産んだ。元年戊申。和同と改元。4年辛亥に初めて錦や綾を織った。5年壬子に初めて出雲州を置いた。6年癸丑に初めて丹後・美作・日向・大隅などの州を置いた。7年甲寅に初めて京城の条里と坊門を定めた。8年乙卯に霊亀と改元。9月に元正に譲位した。在位8年、寿48歳。 元正天皇:文武の姉、元明の娘。名は冰高。元年乙卯。3年丁巳に養老と改元。2年戊午に彗星が現れた。4年庚申に新羅が来て西の辺境を伐った。8年甲子2月に聖武に譲位した。在位10年、寿69歳。 聖武天皇:文武の太子、名は首。元年甲子。神亀5年戊辰に初めて進士の試験を設けた。6年己巳に天平と改元。19年丁亥に初めて近衛大将軍を置いた。21年己丑7月に孝謙に譲位した。在位26年、寿56歳。 孝謙天皇:聖武の娘、名は阿閉。元年己丑。天平勝宝と改元。8年丙申に虫があり八幡神の祠殿の柱を食い荒らし、「天下太平」の字となった。9年丁酉に天平宝字と改元。2年戊戍8月に淡路に譲位した。在位10年。 淡路廃帝:天武の孫。元年戊戍[天平宝字を用いる]。道鏡を大臣とした。8年乙巳に孝謙によって廃され、淡路州に放逐された。在位8年、寿32歳。 称徳天皇:[孝謙が復位し隆基と改名]淡路8年乙巳正月に兵を起こしてこれを廃し、再び即位した。天平神護と改元。3年丁未に神護景雲と改元。在位5年、寿53歳。 光仁天皇:天智の孫、名は白壁。元年庚戍。宝亀と改元。称徳が没して跡継ぎがいなかったため、大臣たちが共に議してこれを立てた。彗星が現れた。3年壬子に初めて内供を置いた。大臣の道鏡が死んだ。7年丙辰に唐へ使者を派遣した。12年辛酉に天応と改元。4月に桓武に譲位した。在位12年、寿73歳。 桓武天皇:光仁の太子、名は山部。元年辛酉。翌年壬戍に延暦と改元。3年甲子10月に山城の長岡へ遷都した。12年癸酉に大納言の藤小黒、参議左大弁の小左相に命じて、山城の野郡宇多村が国中の肥沃な地であると判断させた。13年甲戍10月辛酉、長岡から平安城へ遷都した。これが今の京都である。賀茂明神に命じて条里と坊門を定めさせた。17年戊寅に中納言の坂上田村が清水寺を創建した。23年甲申に第五皇子の楓原親王に平の姓を賜った。平氏はこれに始まる。在位26年、寿70歳。 平城天皇:桓武の太子、名は安殿。元年丙戍。大同と改元。4年己丑4月に嵯峨に譲位した。在位4年、寿52歳。 嵯峨天皇:桓武の第二子、平城の同母弟。元年己丑。翌年庚寅に弘仁と改元。14年癸卯正月に彗星が現れた。4月に淳和に譲位した。在位15年、寿57歳(あるいは46歳)。広く学問を好み、特に書道に秀でていた。後宮に14人おり、47人の子を産んだ。 淳和天皇:桓武の第三子、名は大伴。元年癸卯。翌年甲辰に天長と改元。5年戊申に初めて諸州の七道を定めた。10年癸丑に仁明に譲位した。在位11年、寿55歳。 仁明天皇:嵯峨の第二子、名は正良。元年癸丑。翌年甲寅に永和と改元。4年丁亥に彗星が現れた。5年戊午5月に雨や雪が降った。15年戊辰に嘉祥と改元。3年庚午3月に病によって文徳に譲位し、ついに出家した。在位18年、寿41歳。 文徳天皇:仁明の太子。元年庚午。翌年辛未に仁寿と改元。2年壬申に彗星が現れた。4年甲戍に斉衡と改元。3年丙子3月に大地震があった。4年丁丑に天安と改元。在位9年、寿33歳。後宮に6人おり、29人の子を産んだ。 清和天皇:文徳の第四子、名は惟仁、法名は素貞。元年戊寅、年は9歳であった。忠仁公(良房)が摂政となった。翌年己卯に貞観と改元。6年甲申に彗星が現れた。14年壬辰に良房が死んだ。18年丙申に第六皇子の貞純親王に源の姓を賜った。源氏はこれに始まる。11月に陽成に譲位した。在位19年、寿32歳。 陽成天皇:清和の太子、名は貞明。元年丙申、年は9歳であった。昭宣公(基経)が摂政となった[基経は良房の子で、中納言長良の第三子である]。翌年丁酉に元慶と改元。8年甲辰2月に光孝に譲位した。在位9年、寿81歳。 光孝天皇:仁明の第三子、名は時康。元年甲辰。翌年乙巳に仁和と改元。在位4年、寿58歳。 宇多天皇:光孝の第三子、名は定省、法名は空理、のちに金剛覚と改めた。元年丁未[仁和を用いる]。3年己酉4月に寛平と改元。3年辛亥正月に摂政の基経が死んだ。9年丁巳7月に醍醐に譲位した。在位11年。寛平天皇とも号する。寿66歳。 醍醐天皇:宇多の太子、名は敦仁。元年丁巳。翌年戊午に昌泰と改元。3年庚申に右大臣の菅原道真を太宰権帥として左遷した。4年辛酉に延喜と改元し、菅原道真を太宰府に放逐した。3年癸亥に菅原道真が死んだ。7年丁卯に彗星が現れた。23年癸未に延長と改元。8年庚寅6月に清涼殿に雷が落ち、また大納言の清貫、右大弁の希世にも雷が落ちた。人々は菅原道真の祟りであると称した。9月に朱雀に譲位した。在位34年、寿46歳。後宮に11人おり、36人の子を産んだ。 朱雀天皇:醍醐の第十一子[一説には長子]、名は寛明、法名は仏陀樹。元年庚寅、年は8歳であった。貞信公(忠平)が摂政となった[昭宣公の第四子である]。翌年辛卯に承平と改元。8年戊戍4月から8月まで大地震があった。天慶と改元。2年己亥2月に将門と純友が謀叛を起こした。3年庚子に将門と純友を討った。4年辛丑に摂政の忠平を関白とした。9年丙午4月に邑上(村上)に譲位した。在位17年、寿30歳。 邑上天皇:[あるいは村上と作る]醍醐の第十四子、朱雀の同母弟。名は成明。元年丙午。翌年丁未に天暦と改元。2年戊申9月に宮中で火災があった。3年己酉に関白の忠平が死んだ。6年壬子に国中の諸神を一階級昇叙させた。11年丁巳に応和と改元。4年庚申に宮中で火災。5年辛酉正月に康保と改元。彗星が現れた。2年壬戍に彗星が現れた。3年癸亥11月に彗星が現れた。民は飢え、米1斗が100銭となった。宮中でまた火災があった。4年甲子に安和と改元。在位22年、寿42歳。 冷泉天皇:邑上の第二子、名は憲平。元年丁卯。清慎公(実頼)を関白とした[貞信公の長子である]。翌年戊辰に安和と改元。2年己巳8月に円融に譲位した。在位3年、寿62歳。 円融天皇:邑上の第五子、冷泉の同母弟。名は守平。元年己巳、年は11歳であった。翌年庚午に天禄と改元。5月に関白の実頼が死に、謙徳公(伊尹)を摂政とした[貞信公の孫である]。3年壬申に謙徳公が死に、忠義公(兼通)を関白とした[伊尹の同母弟である]。4年癸酉に天延と改元。3年乙亥に彗星が現れた。4年丙子5月に宮中で火災。7月に貞元と改元。11月に忠義公が死に、廉義公(頼忠)を関白とした[清慎公の第二子である]。3年戊寅に天元と改元。3年庚辰7月に大風雨があり羅城門が壊れた。11月に宮中で火災。5年壬午に宮中で火災。6年癸未に永観と改元。2年甲申8月に華山(花山)に譲位した。在位16年、寿33歳。 華山天皇:冷泉の太子、名は師貞。元年甲申。翌年乙酉に寛和と改元。2年丙戍6月に一条に譲位し、ついに出家した。法名は入覚。在位2年、寿41歳。 一条天皇:円融の太子、名は懐仁、法名は精進覚。元年丙戍、年は7歳であった。右大臣の兼家を摂政とした[忠義公の同母弟である]。翌年丁亥に永延と改元。3年己丑7月に彗星が現れた。永祚と改元。2年庚寅5月に摂政の兼家を関白とした。7月に兼家が死に、兼家の長子である道隆を関白とし、その後摂政とした。11月に正暦と改元。6年乙未2月に長徳と改元。4月に摂政の道隆が死に、その同母弟である道兼を関白としたが5月にまた死に、その同母弟である道長を関白とした。宮中で火災があった。5年己亥に長保と改元。宮中で火災。3年辛丑に宮中で火災。6年甲辰に寛弘と改元。2年乙巳に宮中で火災。8年辛亥6月に三条に譲位した。在位26年、寿32歳。 三条天皇:冷泉の第二子、名は居貞。元年辛亥。翌年壬子に長和と改元。宮中で火災。4年乙卯に宮中で火災。5年丙辰正月に道長を摂政とした。7月に後一条に譲位した。在位6年、寿32歳。 後一条天皇:一条の第二子、名は敦成。元年丙辰、年は9歳であった。翌年丁巳に寛仁と改元。道長の長子である頼通を摂政とした。2年戊午6月に彗星が現れた。3年己未に道長が出家し法名を行観とした。頼通を関白とした。5年辛酉に治安と改元。4年甲子に万寿と改元。5年戊辰に長元と改元。2年己巳に彗星が現れた。2月から3月にかけて大雪が降り、この年は大飢饉となった。9年丙子4月に後朱雀に譲位し、出家した。その夜に没した。在位21年、寿29歳。遺骸を焼き、遺骨を浄土寺に納めたのは遺命による。 後朱雀天皇:一条の第三子、後一条の同母弟。名は敦良。元年丙子。翌年丁丑に長暦と改元。3年己卯に宮中で火災。4年庚辰に長久と改元。3年壬午に宮中で火災。5年甲申に寛徳と改元。2年乙酉正月に後冷泉に譲位し、ついには没した。在位10年、寿37歳。遺骸を焼き遺骨を円教寺に納めた。 後冷泉天皇:後朱雀の太子、名は親仁。元年乙酉。翌年丙戍に永承と改元。3年戊子に宮中で火災。8年癸巳に天喜と改元。4年丙申に彗星が現れた。5年丁酉に大極殿で火災。6年戊戍に康平と改元。宮中で火災。3年庚子に彗星が現れた。8年乙巳に治暦と改元。4年戊申4月に没した。在位24年、寿44歳。遺骸を焼き遺骨を円教寺に納めた。 後三条天皇:朱雀の第二子、名は尊仁。元年戊申。頼通の同母弟である教通を関白とした。翌年己酉に延久と改元。4年壬子12月に白河に譲位した。在位5年、寿40歳。遺骸を焼き遺骨を禅林寺に納めた。 白河天皇:後三条の太子、名は貞仁。元年壬子[延久を用いる]。3年甲寅に頼通が死に承保と改元。2年乙卯に宮中で火災。9月に関白の教通が死に、頼通の第二子である師実を関白とした。4年丁巳に承暦と改元。5年辛酉に永保と改元。2年壬戍に彗星が現れた。4年甲子に応徳と改元。3年丙寅に堀川に譲位し、出家して法名を円寂とした。在位15年、寿77歳。 堀川天皇:白河の第二子。元年丙寅、年は8歳であった。関白の師実を摂政とした。翌年丁卯に寛治と改元。8年甲戍に師実の長子である師通を関白とし、嘉保と改元。3年丙子に永長と改元。地震があった。2年丁丑に承徳と改元。彗星が現れた。3年己卯に関白の師通が死に康和と改元。3年辛巳に師実が死んだ。6年甲申に長治と改元。2年乙酉に師通の長子である忠実を関白とした。3年丙戍に嘉承と改元。2年丁亥7月に没した。在位22年、寿29歳。 鳥羽天皇:堀川の太子、名は宗仁。元年丁亥、年は5歳であった。翌年戊子に天仁と改元。2年己丑に彗星が現れた。3年庚寅に天永と改元。4年癸巳に永久と改元。6年戊戍に元永と改元。2年己亥に彗星が現れた。3年庚子に保安と改元。2年辛亥に忠実の長子である忠通を関白とした。4年癸卯正月に宗徳(崇徳)に譲位し、出家して法名を空覚とした。在位17年、寿54歳。 宗徳天皇:鳥羽の太子、名は顕仁。元年癸卯、年は5歳であった。関白の忠通を摂政とした。翌年甲辰に天治と改元。3年丙午に大治と改元。彗星が現れた。6年辛亥に天承と改元。2年壬子に長承と改元。彗星が現れた。4年乙卯に保延と改元。4年戊午に彗星が現れた。7年辛酉7月に永治と改元。12月に廃された。在位19年、寿46歳。 近衛天皇:鳥羽の第六子、名は体仁。元年辛酉、年は3歳であった。翌年壬戍に康治と改元。3年甲子に天養と改元。彗星が現れた。2年乙丑に久安と改元。彗星が現れた。7年辛未に仁平と改元。4年甲戍に久寿と改元。2年乙亥に彗星が現れ、7月に没した。在位15年、寿17歳。 後白河天皇:鳥羽の第四子、宗徳の同母弟。名は雅仁。元年乙亥。翌年丙子に保元と改元。7月に天皇と宗徳が戦い、宗徳が敗れて讃岐州に流された。宗徳の将である奥州判官の源為義、左大臣の頼長は誅殺され、下野守の義朝を左馬頭とし、安芸守の平清盛を播磨刺史とした。これは功績を賞したためである。3年戊寅8月に摂政の忠通が辞退した。この月に二条に譲位し、のちに出家して法名を行真とした。在位4年、寿66歳。 二条天皇:後白河の太子、名は守仁。元年戊寅、年は16歳であった。忠通の長子である基実を関白としたが、これも16歳であった。翌年己卯に平治と改元。右金吾の信頼、左馬頭の義朝が乱を起こし、12月の夜に王宮を焼いた。天皇は六波羅の太弐である平清盛の家に逃れた。信頼の兵は潰滅し、義朝の一族は滅びた。尾張・遠江・武蔵・紀伊の5州をもって清盛の一族に封じこれを賞した。2年庚辰に永暦と改元。この年、兵衛佐の源頼朝を伊豆に流刑にした。2年辛巳に応保と改元。3年癸未に長寛と改元。6月に前摂政の忠通が出家した。2年甲申に死んだ。3年乙酉に永満と改元。王宮で火災。6月に六条に譲位した。在位8年、寿22歳。 六条天皇:二条の太子、名は順仁。元年乙酉、年は2歳であった。翌年丙戍7月に関白の基実が死に、忠通の第二子である基房を摂政とした。8月に仁安と改元。3年戊子2月に高倉に譲位した。在位4年、寿13歳。 高倉天皇:後白河の第二子、名は憲仁[一説には兼仁]。元年戊子、年は8歳であった。翌年己丑に嘉応と改元。この時、平清盛の長子である重盛が内大臣兼左大将となり、弟の宗盛が中納言兼右大将となり、父子兄弟で権勢が国中に傾いた。3年辛卯に承安と改元。5年乙未に安元と改元。3年丁酉4月に彗星が現れた。京城で火災があり、公卿の家で延焼する者が多く、ついに王宮に及び、朱雀門から大極殿に至るまで諸司八省が焼け野原となった。8月に治承と改元。2年戊戍に彗星が現れた。3年己亥に摂政の基房が事により左遷され、基実の長子である基通を関白とした。6月に大風、10月に地震があった。4年庚子2月に安徳に譲位した。在位13年、寿21歳。この年の8月23日、源頼朝が起兵して平氏と相模の石橋山で戦った。28日に三浦でまた戦った。翌日頼朝は船に乗って房州の小浦に渡った。11月12日、平大将の重衡が三井寺を焼いた。源氏はまず関東を陥落させ、ついにはその地を領有した。12月に大いに官軍を発して源氏を東討しようとしたが、富士川に至って官軍は進まず、引き返した。 安徳天皇:高倉の太子、名は言仁。元年庚子、年は3歳であった。翌年辛丑に養和と改元。2月に源氏と平氏が美濃州で戦い、平清盛が死んだ。清盛が国政を執ること23年であった。2年壬寅に寿永と改元。6月に平氏が兵を越前に駐屯させ源氏と大戦したが、平氏は不利であった。また臨坂で戦ったが平軍は大潰滅した。源氏は勝に乗じてついに京城を陥落させた。7月に天皇は鞍馬山から比叡山へ逃れた。蔵人の行家が兵6万を率いて宇治から京城に入り、また木曽冠者の義仲が兵8万を率いて粟田口から京城に入った。11月に法住寺院を攻め王師が敗北した。頼朝は弟の義経を派遣して義仲を討たせた。2年癸卯、平氏は天皇を挟んで西海へ逃れた。在位4年。 後鳥羽天皇:高倉の第三子、名は尊成。安徳の寿永2年8月に即位。年は4歳であった。基房の長子である師家を摂政とした。翌年甲辰に師家を罷免し、基通を再び摂政とし、元暦と改元した。2月に源氏と平氏が摂津の一ノ谷でまた戦った。2年乙巳2月にまた讃岐の八島で戦った。3月にまた長門の壇ノ浦で戦い、平氏の兵は敗れ、安徳の祖母である後白河の后が安徳を抱いて海に身を投げた。寿8歳であった。平氏および後宮で殉死した者が多く、今でも長門州に像を作って田を与え毎年祀っている。7月に大地震があった。8月に文治と改元。2年丙午に摂政の基通を罷免し、忠通の第三子である兼実を摂政とした。5年己酉に右大将の源頼朝が奥州を征伐して大勝した。6年庚戍に建久と改元。7年丙辰に摂政の兼実が辞退し、基通が再び関白となった。9年戊午正月に土御門に譲位した。在位16年。順徳の承久3年辛巳に隠岐州に流され、隠岐院と号し、隠岐で没した。寿60歳。公卿で党派に座して誅殺された者が甚だ多かった。 土御門天皇:後鳥羽の太子、名は為仁。元年戊午、年は4歳であった。基通が再び摂政となった。翌年己未に正治と改元。右大将の源頼朝が死んだ。年は53歳であった。3年辛酉に建仁と改元。3年癸亥に兼実の第二子である良経を摂政とした。4年甲子に元久と改元。3年丙寅に摂政の良経が死に、基通の長子である家実を摂政とし、建永と改元。2年丁卯に承元と改元。2年戊辰に朱雀門で火災。4年庚午に彗星が現れ、11月に順徳に譲位した。順徳の承久3年辛巳に土佐に流され、後に阿波へ移され阿波院と号した。在位13年、寿27歳。 順徳天皇:鳥羽の第三子、名は守成。元年庚午。翌年辛未に建暦と改元。3年癸酉に建保と改元。6年戊寅9月に御輿が震えた。7年己卯に承久と改元。宮中で火災。3年辛巳に廃され佐渡に流され、佐渡院と号した。在位12年、寿46歳。 廃皇(仲恭天皇):[あるいは先帝、あるいは前東宮と称する]順徳の太子、名は懐誠。元年辛巳、年は4歳であった。良経の長子である道家を摂政とした。5月に関東の将軍である武蔵守の泰時、相模守の時房、左馬頭の義氏らが挙兵して京城を攻め、宇治橋で大戦してついに京城に入り、鳥羽を隠岐に移し、土御門を阿波に移し、ついに天皇を廃した。在位70日[一説には98日、あるいは26日]、寿17歳。 後堀川天皇:高倉の子である守貞親王の子、名は茂仁。元年辛巳、年は11歳であった。家実を再び摂政とした。翌年壬午に貞応と改元。3年甲申に元仁と改元。2年乙酉に嘉禄と改元。3年丁亥に安貞と改元。2年戊子に摂政の家実が辞退し、道家が再び関白となった。3年己丑に寛喜と改元。3年辛卯に道家が辞退し、その長子である教実を関白とした。この年は大飢饉であった。4年壬辰4月に永貞と改元。10月に四条に譲位した。在位12年、寿23歳。 四条天皇:後堀川の太子、名は秀仁。元年壬辰、年は2歳であった。関白の教実を摂政とした。翌年癸巳に天福と改元。2年甲午に文暦と改元。2年乙未に摂政の教実が死に、道家が再び摂政となり、嘉禎と改元。3年丁酉に道家が辞退し、家実の長子である兼経を摂政とした。4年戊戍に暦仁と改元。2年己亥に延応と改元。2年庚子に仁治と改元。2年辛丑は大飢饉であった。3年壬寅正月に没した。在位11年、寿12歳。 後嵯峨天皇:土御門天皇の第四子、名は郡仁。元年壬寅、年は23歳であった。摂政の兼経を関白とした。3月に兼経が辞退し、道家の第二子である良実を関白とした。翌年癸卯に寛元と改元。4年丙午正月に関白の良実が辞退し、道家の第三子である実経を摂政とし、深草に譲位し、のちに出家して法名を素覚とした。在位5年、寿53歳。 深草天皇(後深草):後嵯峨の太子、名は久仁。元年丙午、年は4歳であった。翌年丁未に摂政の実経を罷免し、兼経を摂政とし、宝治と改元。3年己酉に建長と改元。4年壬子に関東へ行幸し、家実の第二子である兼平を摂政とした。8年丙辰に康元と改元。2年丁巳に正嘉と改元。3年己未に正元と改元。この年は大飢饉で、春夏には疫病が流行し、飢えと病で死ぬ者が数え切れないほどであり、骸骨が道路に暴された。前摂政の兼経が死んだ。11月に亀山に譲位し、のちに出家した。在位14年。 亀山天皇:後嵯峨の第三子、名は恒仁。元年己未、年は11歳であった。翌年庚申に文応と改元。2年辛酉に弘長と改元。摂政の兼平を罷免し、前の左大臣であった良実を再び摂政とした。4年甲子に文永と改元。2年乙丑に摂政の良実を罷免し、左大臣の実経を再び関白とした。3年丙寅7月に関東の将軍が上洛した。8月に大風が吹いた。4年丁卯に関白の実経を罷免し、兼経の長子である基平を関白とした。5年戊辰に蒙古の使者が来た。京城で火災があり、関白の基平が死に、基平の長子である基忠を関白とした。6年己巳に蒙古の使者が来た。7年庚午2月に後嵯峨が没した。諒闇によって五節を罷免した。10年癸酉正月に彗星が現れた。5月に関白の基忠を罷免し、教実の長子である忠家を関白とした。大干ばつがあり、宮中で火災。11年甲戍に蒙古の兵が西の辺境を討った。後宇多に譲位し、のちに出家して禅林院と号した。在位16年。 後宇多天皇:亀山の第二子、名は世仁。元年甲戍、年は8歳であった。関白の忠家を罷免し、実経の長子である家経を摂政とした。翌年乙亥に建治と改元し、蒙古の使者が来た。2年丙子11月に皇子が生まれた。3年丁丑正月に天皇が元服し加冠した。7月に京城で火災。4年戊寅に弘安と改元。正月に地震があり、2月に彗星が現れ、4月に地震と雹があった。4年辛巳に蒙古の兵が博多を討ったが、ちょうど大風に遭い、蒙古の船は敗没した。10年丁亥8月に摂政の兼平を罷免し、良実の長子である師忠を関白とした。10月に伏見に譲位した。在位14年。 伏見天皇:深草の太子、名は煕仁。元年丁亥、年は22歳であった。即位の日に大地の揺れが再発した。翌年戊子に正応と改元。6月に大納言実兼の娘を納めた。この月に地震が十度あった。2年己丑に基平の長子である家基を関白とした。4年辛卯に家基が辞退し、忠家の長子である忠教を関白とした。6年癸巳に関白の忠教が辞退し、家基が再び関白となり、永仁と改元。4月から6月にかけて鎌倉で地震があり、山が崩れ、家屋が倒壊し、死者は凡そ7万余人に及んだ。4年丙申に関白の家基が死に、兼忠を関白とした。5年丁酉に宮中で火災。6年戊戍7月に持明に譲位した。在位12年、寿53歳。 持明天皇:[あるいは後伏見]伏見の太子、名は春仁。元年戊戍に兼基を摂政とした[これ以下、関白や摂政の記述は省略するが、現在に至るまで世襲されており、天皇家事を掌るのみで国政には関与していない]。翌年己亥に正安と改元。在位4年、寿49歳。 後二条天皇:後宇多の太子、名は邦治。元年辛丑。翌年壬寅に乾元と改元。2年癸卯に嘉元と改元。4年丙午に徳治と改元。2年丁未8月に没した。在位7年、寿24歳。 花山天皇(花園天皇):[あるいは花国と称する]持明の第二子[一説には伏見の第二子]、名は富仁。元年丁未。翌年戊申に延慶と改元。3年辛亥に応長と改元。2年壬子に正和と改元。6年丁巳に文保と改元。2年戊午2月に後醍醐に譲位した。在位11年、寿53歳。 後醍醐天皇:後宇多の第二子、名は尊治。元年戊午。翌年己未に元応と改元。3年辛酉に元亨と改元。4年甲子に正中と改元。3年丙寅に嘉暦と改元。4年己巳に元徳と改元。3年辛未に元弘と改元。この年、源氏が平氏を攻め、天皇は密かに京城を出てこれを避けた。清和の幼少期に即位して良房が摂政となって以来、幼少の天皇が相次ぎ政は摂政に帰し、高倉の世に平氏が権勢を擅にしてからは、天皇や摂政も政に関与できなくなっていた。源氏の頼朝が伊豆から起兵して平氏を追い払い、世々鎌倉に鎮座していたが、ここに至って源仁山がまた平氏を攻め追い払い、ついに国政を総覧し、自ら等持殿と号した。仁山が死ぬと子の瑞山が継いで宝篋院殿と号し、瑞山が死ぬと子の義満が継いだ[のちに出家して法名を道義とし、鹿苑院と号した]。義満が死ぬと子の義持が継ぎ[のちに出家して法名を道詮とし、勝定院殿と号した]、義持が死ぬと子の義教が継いで普広院殿と号した。義教は大臣たちの領地が広すぎて制御し難いため、少しずつ分割して封じようとした。大臣に赤松殿という者がおり、その従弟が義教に寵愛されていたため、義教は赤松の領地を分割してその従弟に封じようとし、それを赤松の家臣に語った。家臣が赤松に漏らし、今の天皇の嘉吉元年辛酉[すなわち正統6年]に、赤松は兵を伏せて義教を自邸の宴に招いた。義教は多くの兵を伴って行ったが、内庁に招き入れられ酒宴がたけなわとなった頃、厩の馬を放って騒ぎを起こさせ、門を閉じて伏兵を発し、ついに義教を弑逆した。大内持世は槍を受け、重い垣根を越えて逃げ出し、管領の細川らと共に義教の子である義勝を立てた。3年癸亥に病死したため、またその弟の義成(義政)を立てた。義政が現在のいわゆる国王である。その国中ではあえて王とは称さず、ただ御所と称し、出す文書には明教書と称する。毎年正月に大臣を率いて一度天皇に拝謁するが、普段は接することなく、国政や隣国への使者のやり取りにも天皇は一切関与しない。天皇は在位16年、寿45歳。 光厳天皇:持明の太子、名は量仁。元年癸酉。翌年甲戍に建武と改元。在位5年、寿52歳。 光明天皇:持明の第二子、名は豊仁。元年丁丑。翌年戊寅に暦応と改元。5年壬午に康永と改元。4年乙酉に貞和と改元。5年己丑10月に崇光に譲位した。在位13年、寿62歳。 崇光天皇:光厳の太子、名は興仁。元年己丑。翌年庚寅に観応と改元。2年辛卯8月に後光厳に譲位した。在位3年、寿65歳。 後光厳天皇:光厳の第二子、名は弥仁。元年辛卯。翌年壬辰に文和と改元。5年丙申に延文と改元。6年辛丑に康安と改元。2年壬寅に貞治と改元。7年戊申に応安と改元。4年辛亥3月に後円融に譲位した。在位21年、寿37歳。 後円融天皇:後光厳の太子、名は緒仁。元年辛亥[応安を用いる]。5年乙卯に永和と改元。5年己未に康暦と改元。3年辛酉に永徳と改元。3年癸亥12月に小松(後小松)に譲位した。在位13年。 小松天皇:後円融の太子、名は幹仁。元年癸亥。翌年甲子に至徳と改元。4年丁卯に嘉慶と改元。4年庚午に康応と改元。2年辛未に明徳と改元。4年甲戍に応永と改元。19年壬辰8月に称光に譲位した。在位30年、寿57歳。 称光天皇:小松の太子、名は実仁。元年壬辰[応永を用いる]。35年戊申に正長と改元。7月に没した。在位17年、寿29歳。 当今天皇:崇光の曾孫、名は彦仁。元年戊申。翌年己酉に永享と改元。13年辛酉に嘉吉と改元。4年甲子に文安と改元。6年己巳に宝徳と改元。4年壬申に亨徳と改元。4年乙亥に康正と改元。3年丁丑に長禄と改元。4年庚辰に寛正と改元。7年丙戍に文正と改元。2年丁亥に応仁と改元。3年己丑に文明と改元。現在辛卯で3年となる。
国王代序 国王の姓は源氏である[第56代清和天皇の18年丙申に第六皇子の貞純親王に源の姓を賜った。源氏はこれに始まる。すなわち唐の僖宗の乾符3年である]。後白河天皇の保元3年戊寅、征夷大将軍の源頼朝が鎌倉を主とした。二条天皇の永暦元年庚辰、頼朝は兵衛佐として伊豆州に流された。この時、平清盛が政を執り、父子兄弟が要路に盤踞し、政治や征伐はその手から出、驕り高ぶり残虐で道路は目を背けるほどであった。頼朝は伊豆から起兵して西へ向かい、まず関東を拠点にして度重なる戦いに勝ち、その勢いに乗じて席巻し、安徳天皇の寿永元年壬寅に京城に入り、平氏の兵は敗れて安徳を挟んで西海へ逃れた。こうして後鳥羽天皇を立てて鎌倉に鎮座し、代々相継いで12代を経て、仁山(足利尊氏)、後醍醐天皇の辛未にまた平氏を攻めてその党をことごとく追い払い、国政を総覧して自ら等持殿と号した。仁山が死ぬと子の瑞山(義詮)が継いで宝篋院殿と号した。瑞山が死ぬと子の義満が継いだ[のちに出家して法名を道義とした]。鹿苑院と号した。義満が死ぬと子の義持が継いだ[のちに出家して法名を道詮とした]。勝定院殿と号した。義持が死ぬと子の義教が継いで普広院殿と号した。義教は大臣の領地が広すぎて制御し難いため、少しずつ分割して封じようとし、大臣に赤松殿という者がいたが、その従弟が義教に寵愛されていたため、義教は赤松の地を分割して従弟に封じようとし、それを赤松の家臣に語った。家臣が赤松に漏らし、現在の天皇の嘉吉元年辛酉[すなわち正統6年]、赤松は兵を伏せて義教を自邸の宴に招いた。義教は盛大に兵を連れて行き、内庁に入って酒宴がたけなわとなった時、厩の馬を放って門を閉じ、伏兵が発して義教を弑逆した。大内持世は槍を受け重い垣根を越えて逃げ出し、管領の細川らと共に義教の子である義勝を立てた。3年癸亥に病死したため、またその弟の義成(義政)を立てた。義成が死ぬとまたその弟の義政、これが現在のいわゆる国王である。その国中ではあえて王とは称さず、ただ御所と称し、出す文書には明教書と称する。毎年正月の元日に大臣を率いて一度天皇に拝謁するが、普段は接することなく、国政や隣国への使者のやり取りにも天皇は一切関与しない。
国俗 天皇の子はその一族から娶り、国王の子は諸大臣から娶る。 ○諸大臣以下の官職は世襲であり、その職田や封戸もすべて定数があるが、世が長く統合されて拠点とすることはできない。 ○刑罰には笞や杖はなく、あるいは家産を没収し、あるいは流刑にし、重ければ殺す。 ○田の税は3分の1を取り、その他の労役はない[大工仕事などがあれば人を募って行う]。 ○兵は槍や剣を好んで用いる[俗に鉄を鍛えて刃にする技術は精巧で比類がない]。弓は長さ6~7尺で、木の理のまっすぐなものを取り、竹で内外を挟んで膠でくっつける。 ○毎年正月元日、3月3日、5月5日、6月15日、7月7日、15日、8月1日、9月9日、10月亥の日を名日とし、身分の上下に関わらず郷里の者や親族が集まって宴を開き、物を贈り合う。 ○飲食には漆器を用い、尊い者は土器を用いる[一度使えば捨てる]。箸はあるが匙はない。 ○男子は髪を切り束ねる。人は短剣を佩き、婦人は眉を抜いて額を墨で描き、背に髪を垂らし、かつらを繋ぐ。その長さは地に引きずるほどである。男女で容姿を整える者は皆歯を黒く染める。 ○人と出会うときはうずくまって礼とする。道で尊長に会えば笠を脱いで過ぎる。 ○人家は木の板で屋根を葺き、ただ天皇や国王の居所や寺院のみ瓦を用いる。 ○人は茶をすすることを好み、道端に茶店を置いて茶を売り、旅人は銭一文を投じて一椀を飲む。人が集まるところは至る所に千や百の集落があり、市を開いて店を置く。富める者は身寄りのない女子を引き取り、衣食を与えて着飾り、傾城と名付けて旅人を招き入れ、酒食を提供して代金を取る。そのため旅人は豊かに食糧を携える。 ○男女の区別なく国字を習う[国字はカタカナといい47字ある]。ただ僧徒のみ経書を読み漢字を知っている。 ○男女の衣服は皆斑染めで青地に白の模様がある。男子の上着はかろうじて膝まで届き、裾は長く地に引きずる。冠はなく、あるいは烏帽子をかぶる[竹で作られ、頂は平らで前後は鋭く、かろうじて髷を覆う。天皇、国王およびその親族がかぶるものは立烏帽子といい、まっすぐで頂が丸く鋭く、高さは半尺で羅で作られる]。笠は蒲や竹、あるいは杉の木で作る[男女とも外出時にかぶる]。
道路里数 我が慶尚道の東莱県富山浦から対馬島の都伊沙只まで48里。 ○都伊沙只から船越浦まで19里。 ○船越浦から一岐島の風本浦まで48里。 ○風本から筑前州の博多まで38里。 ○博多から長門州赤間関まで30里[風本から直接赤間に向かうと46里]。 ○赤間から竃戸関まで35里。 ○竃戸から尾路関まで35里。 ○尾路から兵庫関まで70里[並びに水路]。 ○兵庫から王城まで18里[陸路]。 ○合計で水路323里、陸路18里[我が国の里数で計算すれば水路3,230里、陸路180里]。
八道六十六州[対馬島一岐島附] 畿内五州 山城州 現在の国都である。山があって城のように険しく、北から南へ東西を抱きかかえるように連なり、南に至ってまだ合わさらない。別に円山があってその入り口に当たり、二つの川が東西から下り、円山に至って合流し南へ海に入る。国都の中の街路はすべて四方に通じており、1町ごとに中道があり、3町を1条とし、条には大路があり整然として乱れがない。およそ9条で20万6千余戸。街には市があり、国王以下の諸大臣はみな封建世襲のように分地を持ち、外州に居住していても皆京城に家を置く。これを京邸という。所属する郡は8、水田は1万1,122町。
天皇宮 東北の隅にあり、周囲を土塀で囲み大門がある。兵士数百が守備している。国王以下の諸大臣は配下の兵を輪番で交代させて守る。門を過る者は皆馬を降りる。宮中の支出は別に2つの州が税を収めて供進する。
国王殿 天皇宮の西北にあり、これも土塀があり兵士十余人が門を守る。大臣らが配下の兵を率いて輪番で宿直する。これを御所という。
畠山殿 天皇宮の東南に居住する。代々左武衛の細川と交代で管提となり、すなわち管領として国王を補佐して政務を執る。現在の天皇の康正元年乙亥[景泰6年]に使者を派遣して来朝し、書状には管提畠山修理大夫源義忠と称した。寛正6年乙酉[成化元年]に義忠が死に、子の義勝が継いだ。文明2年庚寅[成化6年]に使者を派遣して来朝し、書状には管提畠山左京大夫源義勝と称した。 ○また源義就がいる。寛正元年庚辰に使者を派遣して来朝し、書状には雍・河・紀・越・能五州総太守畠山右金吾督源朝臣義就と称した。義忠の同母弟である徳本の子であり同宗であるため皆畠山と称する。
細川殿 国王殿の西に居住する。代々畠山、左武衛と交代で管提となる。源持之が死に子の勝元が継いだ。その時はまだ使者を我が国に派遣していなかった。勝元は山名の源教豊の娘を娶ったが子がなかったため、教豊の幼子を養子とした。その後、教豊は国王の譴責を受けて外州に退けられ、その子の義安ら2人が国王に仕えていた。教豊は2人の子に国王へ帰還を請うように命じたが、2人は父の性質が悪く、帰還すれば争いが起きることを恐れて請わなかった。そこで勝元に請わせたところ、勝元は国王に請い、ついに帰還することができた。このため教豊は勝元に深く徳を感じた。後に勝元に子が生まれると、養子としていた教豊の子を僧にしたため教豊は怒り、勝元と仇となって戦った。教豊の外孫である大内殿や女婿の一色殿、土岐殿らが挙兵してこれを助け、勝元は国王を擁し、天皇を自陣内に移し、大小の群臣で細川に従う者は多く、京都二条の北を焼き払い、塹壕を掘って守った。互いに対峙して今で6年になる。勝元は40余歳である。 ○また持賢がいる。文明2年庚寅に使者を派遣して来朝し、書状には細川右馬頭源朝臣持賢と称した。持賢は勝元の父である持之の弟である。持賢には子がなかったため、勝元はその家に別に部屋を作って典厩と号し、持賢を置いて師事した。年老いており、あるいはすでに死んだとも言われる。 ○また細川勝氏がいる。勝元の従兄弟である。文明2年庚寅に使者を派遣して来朝した。初め上松浦の那久野能登守藤源朝臣頼永が寿藺書記を派遣して来朝した。この時、我が世祖は日本国王との通信を議していたが、風や水が険しく遠いため、諸酋の使者を利用して国王に書を届けようとした。館にいる者の中で寿藺がやや事理を解していたため、ついに書と贈り物を授けて国王に送らせるよう命じた。また礼曹に命じて大内殿と頼永に護送し、贈り物も与えるよう書を送った。文正元年丙戍5月に命を受けて去り、庚寅にようやく来た。寿藺が言うには、その年の6月に上松浦に還り、船を修理し旅装を整えたが、丁亥の2月に上松浦を出発して国都に向かうと、都中で兵が起こり海賊が充満し、南海の道が塞がっていたため、北海から向かい4月にようやく若狄州[若狭]に到着した。国王に馳せ参じて報せると国王は兵を遣わして迎えたが、盗賊が縦横に走り、間道を抜けたり滞在したりと苦難を経て、およそ60日して国都に到着し、書状と贈り物を国王に届け、東福寺に館を定めたという。国王はまさに細川殿の陣中におり、山名殿と対峙していて返書を書く暇がなく、戊子の2月にようやく返書を受け取ったという。国王はさらに返礼の使者がいないわけにはいかないと議し、勝氏に命じて方物を備えて使者とした。勝氏は自ら書を作り、心苑東堂らと寿藺を伴って来た。寿藺はまた、大内へ宛てた書と賜物を持った使者が海賊に略奪されたと言ったが、その言葉には浮浪の者が多く全ては信じ難い。
左武衛殿 国王殿の南に居住する。代々畠山、細川と交代で管提となる。他国の使臣の接待諸事を掌る。後光厳天皇の応安3年庚戌[宣徳3年]に源義淳が使者を派遣して来朝し、書状には左武衛源義淳と称した。義敏が継ぎ、寛正元年庚辰に使者を派遣して来朝し、書状には左武衛源義敏と称した。義廉が継ぎ、4年癸未に使者を派遣して来朝し、書状には左武衛将軍源義廉と称した。
山名殿 国王殿の西に居住する。現在の天皇の長禄3年己卯[天順3年]に初めて使者を派遣して来朝し、書状には但・幡・伯・作・因・備・前・後・芸・石・九州総太守山名霜台源朝臣教豊と称した。教豊は出家して法名を宗全という。細川と対峙している際、国王には異母弟がおり、かつて出家して浄土院と号していた。国王には世継ぎがいなかったため、還俗させて世継ぎにしようとし、今出川殿と号した。1年後、国王に子が生まれると、今出川に「お前は必ず私の子に位を伝えよ」と言い、今出川は誓って承諾した。山名はすでに細川と仇となっており、細川が国王を挟んで命令を下しているため、山名も今出川を擁して敵対した。国王は今年37歳、国王の子は7歳、今出川殿は32歳である。教豊の2人の子である義安らは国王に侍して帰還できず、教豊の長子である義安はまもなく死んだ。義安の子は山名の所にあり、山名は彼を世継ぎにしようとしている。 ○文明元年己丑に義安が使者を派遣して来朝し、書状には丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・備前・備後八ケ州総太守山名弾正少弼源朝臣義安と称した。父の山名左金吾源朝臣宗全の跡を継いだ。宗全の書にも「私の所領する八ケ州はことごとく義安に与える」とある。2年庚寅に宗全はまた使者を派遣して来朝し、書状には因・伯・丹三州太守山名少弼源教豊と称した。
京極殿 畠山殿の南に居住する。代々刑政を掌る。長禄2年戊寅に源持清が使者を派遣して来朝し、書状には京兆尹江・岐・雲三州刺史住京極佐々木氏兼太膳大夫源持清と称した。出家して法名を生観という。 ○また源高忠がいる。文明2年庚寅に使者を派遣して来朝し、書状には所司代京極多賀豊後州源高忠と称した。その使人は生観の同母兄であると言った。3年辛卯にまた栄煕が使者を派遣して来朝し、書状には山陰路隠岐州守護代佐々木尹左近将監源栄煕と称した。その使人は生観の同母弟であると言った。初め高忠がすでに生観の兄と称し、栄煕もまたその弟と称したため、その言葉は信じ難く接待を許さなかったところ、使者は強いて留まり帰らなかった。そこで対馬島の特送の例に準じて接待した。使者が礼曹に言うには、生観の兄弟は栄煕ただ一人であり、高忠は生観の族親で配下であるという。栄煕はこの時隠岐州に居住していた。
右武衛殿 高麗の末期、海賊が患いとなった際、門下府から書状を送り「関西省探題相公」と称して海賊の禁約を命じた。また我が朝の開国時にも書状を交わしたが、到来した書状を失い詳細は不明である。称光天皇の応永15年戊子[永楽6年]に議政府の返書で初めて九州牧右武衛将軍源公と称した。16年己丑に源道鎮が使者を派遣して来朝し、書状には九州府探題、あるいは鎮西節度使、あるいは九州伯、あるいは九州都督、あるいは九州都元帥右武衛、あるいは九州都督府探題、あるいは単に右武衛、あるいは九州総管と称し、前後で称呼は一定しなかったが、国人は右武衛殿と称した。27年庚子に道鎮は年老いたため子である義俊に政を委ね、自らは前都元帥と称した。義俊は九州都督左近大夫将監と称した。これより父子は共に使者を絶えず派遣し、その進上する方物は非常に豊かであったため、我が国の返礼も厚かった。31年甲辰に道鎮の書状には「思いがけず訴訟があり京へ行った」とあり、その後はその王城に道鎮のみがおり、なお使者を派遣して援助を求めた。現在の天皇の永享元年己酉[宣徳4年]以降は使者がない。文正元年丙戌に京城の渋河源朝臣義尭の父がかつて右武衛西海道九州総管であったが、その詳細は語れなかった。おそらく道鎮の後裔であろう。
甲斐殿 左武衛の臣であり、もっぱら左武衛の事を掌る。文明元年己丑に源政盛が使者を派遣して来朝し、書状には甲斐・遠・尾・越・濃四州守と称した。その使者は大酋の例で接待した。
伊勢守政親 文明2年庚寅に使者を派遣して来朝し、書状には国王懐守納政所伊勢守政親と称した。その書状の概略は、「細川と山名が私的に兵を起こし京城は大乱である。私は停止させようとしたが止まず、両人の罪は少なくない。よって扶桑殿下の命により諸侯や諸軍を集め天下の太平を収めようと思うが、大国の余力をお借りしたい。所望の品は綿紬、綿布、苧布、米である」というものであった。その進上する方物も豊かであり、かつ政親が国王の近侍の長であり庶政を出納する者であったため、特別に綿布・正布各千匹、米500石を給与して軍需を助け、国王へ転達させた。また政親へは別に返礼の賜物があった。その使者は大酋使の例で館待した。
教通 庚寅年に寿藺の護送と称して使者を派遣して来朝し、書状には山城居住四川伊予住人河野刑部大輔藤原朝臣教通と称した。寿藺は戦乱の中を往来したため、護送と称して来る者が多かった。以下も同じである。
之種 庚寅年に寿藺の護送と称して使者を派遣して来朝し、書状には京城奉行頭飯尾肥前守藤原朝臣之種と称した。使人は国王の近侍であると言った。その使者は特送の例で館待した。
信忠 庚寅年に寿藺の護送と称して使者を派遣して来朝し、書状には京城居住宗見駿河守源朝臣信忠と称した。
勝忠 庚寅年に寿藺の護送と称して使者を派遣して来朝し、書状には京城居住鷹野民部少輔源朝臣勝忠と称した。
建冑 庚寅年に寿藺を館接したとして使者を派遣して来朝し、書状には慧日山内常喜詳庵住持建冑と称した。建冑は文に優れ、喜詳庵は東福寺の内にある。
昌尭 戊子年に使者を派遣して来朝し、書状には京城東山清水寺住持大禅師昌尭と称した。宗貞国の要請により接待した。日本国が乱れ飢饉の年であり、我が国に寄食する者が甚だ多かったため、以前使者を派遣していなかった者は接待を許さなかった。使人らが強いて三浦に留まり帰らなかったため、宗貞国が人を派遣して請願したため接待を許した。以下も並びに同じである。
用書記 己丑年に使者を派遣して来朝し、書状には深修庵住持用書記と称した。宗貞国の要請により接待した。
大和州 郡は13、水田は1万7,614町。
和泉州 郡は3、水田は4,126町。
河内州 郡は11、水田は1万9,097町。
摂津州 郡は14、水田は1,126町。
忠吉 現在の天皇の応仁元年丁亥[成化3年]に使者を派遣して来朝し、書状には畿内摂津州兵庫津平方民部尉忠吉と称した。図書を受け取り、年に1回船を派遣することを約束した。
吉光 戊子年に使者を派遣して来朝し、書状には畿内摂津州西宮津尉長塩備中守源吉光と称した。宗貞国の要請により接待した。
昌寿 戊子年に使者を派遣して来朝し、書状には畿内摂津州仏法護持四天王寺住持比丘昌寿と称した。宗貞国の要請により接待した。
東山道八州 近江州 郡は24、水田は3万3,402町5段。 美濃州 郡は18、水田は1万4,820町5段。 飛騨州 郡は3、水田は1,615町5段。 信濃州 郡は10、水田は3万9,025町3段。
善峯 戊子年に使者を派遣して来朝し、書状には信濃州禅光寺住持比丘善峯と称した。宗貞国の要請により接待した。
上野州 郡は14、水田は3万2,140町3段。 下野州 火井があり硫黄を産する。郡は9、水田は2万7,460町。 出羽州 温井があり金を産する。郡は10、水田は2万6,090町2段。 陸奥州 金を産する。郡は35、水田は5万1,162町2段。
東海道十五州 伊賀州 郡は4、水田は1,500町。州に天照大神の祠があり、国の貴賤・遠近を問わず皆謁し祭る。 伊勢州 水銀を産する。郡は13、水田は1万9,024町。 志摩州 郡は2、水田は97町。 尾張州 郡は8、水田は1万1,940町。 参河州 郡は8、水田は8,820町。 遠江州 郡は13、水田は1万2,967町。 伊豆州 温井が2か所、火井が1か所あり硫黄を産する。郡は3、水田は2,814町。 駿河州 郡は7、水田は9,717町。 甲斐州 郡は4、水田は1万4,003町。 相模州 郡は8、水田は1万2,236町1段。 上総州 郡は12、水田は2万2,876町6段。鎌倉殿が居住する。国人はこれを東都という。今、鎌倉殿の源氏仁山の子孫が鎌倉以東を拠点として叛き、20余年になる。国王は度々征伐したが勝てていない。 下総州 郡は11、水田は3万3,001町。 常陸州 郡は14、水田は4万9,009町6段。 武蔵州 郡は24、水田は3万5,074町7段。 安房州 郡は4、水田は4,345町8段。
山陽道八州 幡摩州 郡は12、水田は1万1,246町。
吉家 丁亥年に観音の現像を賀す使者を派遣して来朝し、書状には幡摩州室津代官藤原朝臣吉家と称した。上院寺に観音の現像があり、円覚寺に雨花舎利の異瑞があってから、諸州から賀す使者が甚だ多く、以前使者を派遣していなかった者でも皆接待を許した。以下も並びに同じである。
盛久 戊子年に使者を派遣して観音の現像を賀し、書状には幡摩州太守周間浦居住源光禄盛久と称した。
美作州 郡は7、水田は1万1,022町4段。 備前州 郡は8、水田は1万3,210町2段。
貞吉 丁亥年に観音の現像を賀す使者を派遣し、書状には備前州卯島津代官藤原貞吉と称した。
広家 戊子年に観音の現像を賀す使者を派遣し、書状には備前州小島津代官藤原広家と称した。
備中州 銅を産する。郡は9、水田は1万227町8段。 備後州 銅を産する。郡は14、水田は9,269町2段。
吉安 丁亥年に観音の現像を賀す使者を派遣し、書状には備後州海賊大将橈原左馬助源吉安と称した。
政良 戊子年に使者を派遣して来朝し、書状には備後州高崎城大将軍源朝臣政良と称した。宗貞国の要請により接待した。
光吉 戊子年に使者を派遣して来朝し、書状には備後州支津代官藤原朝臣光吉と称した。宗貞国の要請により接待した。
家徳 戊子年に使者を派遣して来朝し、書状には備後州三原津太守在京助源家徳と称した。宗貞国の要請により接待した。
忠義 己丑年に使者を派遣して来朝し、書状には備後州守護代官山名四宮源朝臣忠義と称した。宗貞国の要請により接待した。
安芸州 郡は8、水田は7,250町9段。
持平 庚申年に使者を派遣して来朝し、書状には安芸州小早川美作守持平と称した。年に1隻派遣することを約束した。父の常賀は国王に近侍している。
国重 甲申年に使者を派遣して来朝し、書状には安芸州海賊大将藤原朝臣村上備中守国重と称した。国書を受け、年に1隻派遣することを約束した。
教実 戊子年に観音の現像を賀す使者を派遣し、書状には安芸州太守藤原武田大膳大夫教実と称した。
公家 戊子年に観音の現像を賀す使者を派遣し、書状には安芸州厳島太守藤原朝臣公家と称した。
周防州 荷葉縁を産し、温井がある。郡は6、水田は7,257町9段。
大内殿 多多良氏。代々州内の大内県山口[和訓は也望仇知]に居し、周防・長門・豊前・筑前の4州の地を管轄し、兵は最も強い。日本人は百済王の温祚の子孫が日本に入り、初め周防州の多多良浦に停泊したためこれを氏としたと称する。現在まで800余年、23代を経て世々大内殿と号する。持世に至り子がなく、甥の教弘を跡継ぎとした。教弘が死に子の政弘が継いだ。大内の兵は強く、九州以下の者はあえてその命令に背かない。百済の出自であるため我が国に最も親しい。山名が細川と敵対して以来、政弘は兵を率いて山名を助けに向かい、今で6年になるが未だ帰還していない。小二がその隙に乗じて博多や宰府などの旧地を再び取った。詳細は筑前州小二殿の項にある。
弘安 庚寅年に使者を派遣して来朝し、書状には周防州山口所司代杉河守源弘安と称した。大内殿の代官であり、この時山口に居住していた。
教之 甲戌年に使者を派遣して来朝し、書状には周防州大内進亮多多良別駕教之と称した。大内殿政弘の叔父であり、年に1隻派遣することを約束した。
芸秀 丁亥年に雨花を賀す使者を派遣し、書状には周防州太畠太守海賊大将軍源朝臣芸秀と称した。
義就 丁亥年に観音の現像を賀す使者を派遣し、書状には周防州上関太守鎌苅源義就と称した。
正吉 戊子年に観音の現像を賀す使者を派遣し、書状には周防州上関守屋野藤原朝臣正吉と称した。
盛祥 戊子年に観音の現像を賀す使者を派遣し、あわせて漂流人の報告を行い、書状には富田津代官源朝臣盛祥と称した。
長門州 銅および刃鉄を産する。郡は5、水田は4,902町4段。
弘氏 丁亥年に観音の現像を賀す使者を派遣し、書状には芸石防長四州守護代官陶越前守多多良朝臣弘氏と称した。
光久 丁亥年に寿藺の護送と称して使者を派遣し来朝し、書状には長門州文司浦大将軍源光久と称した。
忠秀 丁亥年に観音の現像を賀す使者を派遣し、書状には長門州赤間関鎮守高石藤原忠秀と称した。辛卯年にまた使者を派遣し我が国の漂流人事について報告した。
忠重 丁亥年に舎利分身を賀す使者を派遣し、書状には赤間関太守矢田藤原朝臣忠重と称した。
義長 戊子年に観音の現像を賀す使者を派遣し、書状には長門州賓重関太守野田藤原朝臣義長と称した。
国茂 戊子年に観音の現像を賀す使者を派遣し、書状には長門州鷲尾多多良朝臣国茂と称した。
正満 戊子年に使者を派遣して来朝し、書状には長門州乾珠満珠島代官宮内頭藤原正満と称した。宗貞国の要請により接待した。
貞成 己丑年に使者を派遣して来朝し、書状には長門州三島尉伊賀羅駿河守藤原貞成と称した。宗貞国の要請により接待した。
南海道六州 紀伊州 郡は7、水田は7,203町7段。 淡路州 郡は2、水田は2,737町3段。 阿波州 郡は9、水田は3,414町5段。
義直 戊子年に観音の現像を賀す使者を派遣し、書状には阿波州鳴渡浦大将軍源朝臣義直と称した。
伊予州 郡は14、水田は1万5,507町4段。
盛秋 戊子年に使者を派遣して来朝し、書状には伊予州川野山城守越知朝臣盛秋と称した。宗貞国の要請により接待した。
貞義 戊子年に使者を派遣して来朝し、書状には伊予州鎌田関海賊大将源貞義と称した。宗貞国の要請により接待した。
讃岐州 郡は11、水田は1万8,830町1段。 土佐州 郡は7、水田は6,228町。
北陸道七州 若狄州 郡は3、水田は3,080町8段。
忠常 辛卯年に寿藺の護送と称して使者を派遣して来朝し、書状には若狄州十二関一番遠敷守護備中守源朝臣忠常と称した。
義国 戊子年に使者を派遣して来朝し、書状には若狄州大浜津守護代官左衛門大夫源義国と称した。宗貞国の要請により接待した。
越前州 郡は6、水田は1万7,839町5段。 越中州 温井がある。水田は1万7,099町5段。 越後州 郡は7、水田は1万4,936町5段。 能登州 郡は4、水田は8,297町。 佐渡州 郡は3、水田は3,928町3段。 加賀州 郡は4、水田は1万2,767町4段。
山陰道八州 丹波州 郡は5、水田は1,846町9段。 丹後州 深重青銅を産する。郡は6、水田は5,537町。
家国 戊子年に使者を派遣して来朝し、書状には丹後州田伊佐津平朝臣門四郎家国と称した。宗貞国の要請により接待した。
但馬州 郡は8、水田は7,140町。
源国吉 丁亥年に舎利分身を賀す使者を派遣し、書状には但馬州津山関佐佐木兵庫助源国吉と称した。
因幡州 郡は7、水田は8,126町。 伯耆州 郡は6、水田は8,830町。
義保 己丑年に使者を派遣して来朝し、書状には伯耆州太守縁野源朝臣義保と称した。宗貞国の要請により接待した。
出雲州 郡は10、水田は9,430町8段。
盛政 丁亥年に寿藺の護送と称して使者を派遣して来朝し、書状には出雲州美保関郷左衛門大夫藤原朝臣盛政と称した。
公順 丁亥年に観音の現像を賀す使者を派遣し、書状には出雲州見尾関処松田備前太守藤原朝臣公順と称した。
義忠 己丑年に使者を派遣して来朝し、書状には出雲州留関海賊大将藤原朝臣義忠と称した。宗貞国の要請により接待した。
石見州 郡は6、水田は4,918町。
和兼 周布兼貞の子。丁卯年に自ら来て図書を受け、書状には石見州因幡守藤原周布和兼と称した。年に1隻派遣することを約束した。
賢宗 庚寅年に使者を派遣して来朝し、書状には石見州桜井津土屋修理大夫平朝臣賢宗と称した。
久直 丁亥年に寿藺の護送と称して使者を派遣して来朝し、書状には石見州益田守藤原朝臣久直と称した。
正教 丁亥年に寿藺の護送と称して使者を派遣して来朝し、書状には石見州三住右馬守源氏朝臣正教と称した。
吉久 戊子年に寿藺の護送と称して使者を派遣して来朝し、書状には石見州北江津太守平朝臣吉久と称した。
隠岐州 郡は4、水田は584町9段。
秀吉 己丑年に使者を派遣して来朝し、書状には隠岐州太守源朝臣秀吉と称した。宗貞国の要請により接待した。
西海道九州 筑前州 海辺から3里離れたところに山があり、山頂に火井がある。太陽が真っ直ぐに照らすと煙や炎が天に漲り、水が沸き溢れて凝り固まり硫黄となる。硫黄を産する島は皆同様である。郡は15、水田は1万8,328町9段。州に博多(あるいは覇家台、石城府、冷泉津、筥崎津と称する)があり、住民は万余戸。小二殿と大友殿が分けて治め、小二が西南の4千余戸、大友が東北の6千余戸を治める。藤源貞成を代官として居住させている。人々は行商を業とし、琉球や南蛮の商船が集まる地である。北に白砂が30里あり、松林をなす。日本は皆海松であるが、ここだけ陸松があり、日本人は多く絵に描いて奇勝とする。我が国を往来する者は九州の中で博多が最も多い。
小二殿 宰府(あるいは大都督府)の西北に居し、博多から3里離れている。民居は2,200余戸、正兵は500余り。源氏が代々主であり、筑前・豊前・肥前三州総太守太宰府都督司馬少郷小二殿と称する。源嘉頼に至り、現在の天皇の嘉吉元年辛酉に大臣の赤松が反乱を起こし、国王が諸州に兵を徴したが小二殿は至らなかった。国王は大内殿に討伐を命じ、嘉頼の兵は敗れて肥前州平戸の源義の所に逃れ、やがて対馬島に身を投じて美女浦に居住した。対馬島もその管轄であり、大内殿はついに小二が管轄していた筑前州博多や宰府などの地を全て領有した。のちに嘉頼は旧地を取り戻そうと挙兵して向かったが、上松浦に至って大内殿が迎撃して破り、嘉頼は対馬に逃げ帰り、死んだ。子の教頼が継ぎ、丁亥年に教頼はまた対馬島の兵を率いて博多と宰府の間の見月の地に至ったが、大友殿および大内代官可申の所に敗れて死に、対馬島代官の宗盛直らも従って敗死した。己丑年に国王は、大内が山名に加担したため、小二に旧土を回復するよう命じ、諸州にも助けるよう命じた。秋7月、対馬島主の宗貞国が挙兵し、教頼の子である頼忠を奉じて向かい、沿路の諸酋長が護送して助け、ついに宰府に至り旧境をことごとく回復した。頼忠は宰府に至ると貞国に博多を守らせた。貞国自身は愁未要時に留まり[小二殿の管轄は博多の西南半里にあり、民居は300余戸]、配下に博多を守らせた。肥前州の千葉殿とその弟に隙があり、小二はその弟に味方して貞国に向かって攻めるよう命じた。貞国は難色を示したが、小二は強いて派遣した。大雪に遭って敗れて帰り、対馬島の兵1,000名が凍えて多くが死んだ。長門・筑前・一岐の境は海賊が縦横している。今辛卯年の春、我が宣慰官田養民らが頼忠と貞国を慰労しようと対馬島に至ったが、貞国はそれを聞き、海賊が道を塞いで宣慰官が来られないため自分が迎えに行くと口実を作り、兵を留めて博多の愁未要時を守らせ、頼忠に告げずに対馬へ帰った。頼忠は以前対馬島にいた時、年に1、2隻派遣すると約束していたが、今本土に還り、その使人は大酋使の例に準じて館待している。
護軍道安 かつて琉球国の使者として我が国に来聘し、これにより往来した。乙亥年に来て図書を受け、丁丑年に来て職を受けた。大友殿の管下。
司正林沙也文 道安の子。庚寅年に父に従って来て職を受けた。大友殿の管下。
護軍宗家茂 乙亥年に来て図書を受け、職を受けた。富商であり石城府代官の宗金の子。宗金は大友殿が差遣した者である。大友殿の管下。
司果信盈 己丑年に来て職を受けた。向化した中枢の藤安の娘婿。安吉の父がかつて来朝して京城の館で死に、東郊に葬られたため、その母は安吉に命じて来朝して侍らせ、父の墓を守らせた。安吉が死ぬと弟の茂村がまた来て侍り、副司果となった。安吉の母は時々船を派遣し、藤氏母と称する。大友殿の管下。
氏郷 乙亥年に使者を派遣して来朝し、書状には筑前州宗像朝臣氏郷と称した。年に1隻派遣することを約束した。小二殿の管下であり、氏俊と共に国王の命を受けて宗像殿の主となり、配下の兵を持っている。
貞成 辛巳年に使者を派遣して来朝し、書状には筑前州冷泉津尉兼内州太守田原藤原貞成と称した。図書を受け、年に1、2隻派遣することを約束した。大友殿の族親であり、博多代官。
信重 丙子年に使者を派遣して来朝し、書状には筑前州冷泉津藤原佐藤四郎信重と称した。年に1隻派遣することを約束した。辛卯の冬、琉球国王の使者として来て中枢府同知事を受けた。博多の富商である定清の娘婿。大友殿の管下。
安直 丁亥年に使者を派遣して漂流人を送り、書状には筑前州筥崎津寄住臣藤原孫右衛門尉安直と称した。八幡神留守殿の管下。
直吉 丁亥年に我が漂流人を送り、書状には筑前州筥崎津寄住藤原兵衛次郎直吉と称した。信重の兄の子。八幡神留守殿の管下。筥崎津に居住。
重家 丁亥年に我が漂流人を送り、書状には冷泉津布永臣平与三郎重家と称した。大友殿の管下。
親慶 丁亥年に観音の現像を賀す使者を派遣し、書状には筑前州胎土邦北崎津源朝臣親慶と称した。
正家 丁亥年に寿藺の護送と称して使者を派遣して来朝し、書状には筑前州相以島大将軍源朝臣正家と称した。
氏俊 丁亥年に舎利分身を賀す使者を派遣し、書状には筑前州宗像先社務氏俊と称した。
道京 戊子年に使者を派遣して来朝し、書状には筑前州糸島太守大蔵氏道京と称した。宗貞国の要請により接待した。
縄繁 戊子年に使者を派遣して来朝し、書状には名島櫛島両島太守藤原縄繁と称した。宗貞国の要請により接待した。
成直 己丑年に使者を派遣して来朝し、書状には筑前州聡政所秋月太守源成直と称した。宗貞国の要請により接待した。大友殿の管下で秋月殿と称し武才がある。
信歳 丙戌年に観音の現像を賀す使者を派遣し、書状には筑前州麻生藤原信歳と称した。丁亥年にまた使者を派遣して来たが、不急の事として接待しなかった。
筑後州 郡は10、水田は1万3,851町8段。
豊前州 郡は8、水田は1万3,278町2段。
邦吉 戊子年に使者を派遣して来朝し、書状には豊前州蓑島海賊大将玉野井藤原朝臣邦吉と称した。宗貞国の要請により接待した。
俊幸 戊子年に使者を派遣して来朝し、書状には豊前州彦山座主黒川院藤原朝臣俊幸と称した。宗貞国の要請により接待した。大友殿の管下で彦山に居住し武才がある。
豊後州 温井が5か所ある。郡は8、水田は7,524町。
大友殿 源氏。代々世襲し、居住する民戸は万余、正兵は2,000。博多の東へ6、7日の行程。博多を兼管し小二と分けて治める。初め源持直が豊後・筑後両州太守と称した。現在の天皇の永享元年己酉[宣徳4年]に初めて使者を派遣して来朝し、これより使船が絶えなかった。9年丁巳にまた源親重という者が豊後・筑後両州太守と称して使者を派遣し、その書状で持直を伯父と称し、持直の書にも親戚に譲るとあった。長禄元年丁丑に至り、また親繁という者が豊州大友と称して使者を派遣し、源持直の使者も至った。礼曹でその使者や同行の諸使に問うと、皆「持直は小二殿と同時に領土を失い、大内殿が親繁をもって持直に代えて大友殿とした。現在大内と安芸州が攻め合っており、持直と小二はその隙に乗じて領土を回復しようとしたがまだできていない」と言った。あるいは「源持直は子のないまま従弟の親重を世継ぎとし、大内が小二を討った際、親重を退けてその弟の親縄で代えた」とも言われる。2年戊寅に親繁がまた使者を派遣し、その書状には「曾祖父以来、書を捧げ使者を通じてきたが、九州の兵乱に陥り、箕裘の業を継ぎながらも時に応じて敬意を表すことができなかった」とあった。寛正元年庚辰[天順4年]にまた師能という者が豊後・筑後守大膳大夫と称して使者を派遣し、その書状には「大友持直は大国の恩を蒙ること幾年か知れないが、去年の10月に逝去した。私は持直の嫡孫として大友の家業を継ぐ」とあった。今、辛卯の年に豊州日田の守護親常が使者を派遣して来朝し、その使者は「親常は今の大友殿政親の弟である。前の大友親重は年老いてその子の政親に伝えた。政親は大内政弘の妹婿であり、小二が領土を回復しようとした際、政親は大内を助けようとしたが、父の親重が王命に背くことはできないと考え、ついに小二を助けた」と言った。また時に来る諸使に問うと、皆同じことを言った。この年の冬に来た国王の使者である光以蔵主が言うには、「源持直には初めから子がなく、従弟の親繁を世継ぎとした。親繁が現在の大友殿であり、年は61歳。長子の政親が現在の豊前州太守であり世継ぎとなる予定である。持直はすでに親繁を世継ぎとした後に2人の子をもうけ、長子を師能、次子を能堅とし皆小さな地を封じた。親重と称する者は何者か分からない。おそらく繁と重の2字が国の発音で近いため重と称したのだろう。親縄と称する者は親繁の同母弟で豊後州の小さな地に封じられたが、すでに死んで14年になる」と言った。同時に来た琉球使の博多の人である信重が言うには、「親繁には5人の子がおり、1人は五郎すなわち政親で年30余歳、これが世継ぎとなる。2人は親常で年20余歳、現在日田守である。3人は七郎で年18歳。4人は僧で5人は幼い。大友殿は九州の中で兵が強く、小二以下の皆が敬って仕えている」と言った。しかし大友と称する者は数人おり、豊後州は九州の東にあり地が最も遠く、来る者が稀であるためその真偽を弁別できない。とりあえず往来の書と諸使の言葉を記録し、後の考証を待つ。
親常 大友殿の異母弟。辛卯年に使者を派遣して来朝し、書状には日田郡守護修理大夫大蔵親常と称した。
国光 庚辰年に使者を派遣して我が漂流人を報告し、丁亥年にまた使者を派遣して観音の現像を賀し、書状には豊後州日田郡太守源朝臣国光と称した。
茂実 戊子年に使者を派遣して来朝し、書状には豊後州受護代官木部山城守茂実と称した。
肥前州 温井が2か所ある。郡は11、水田は1万4,432町。州には上下松浦があり海賊の居所である。前朝(高麗)の末期に我が辺境を寇した者は、松浦と一岐・対馬島の人々が多かった。また五島[あるいは五多島]があり、日本人が中国に向かう際に風を待つ地である。
節度使 己丑年に使者を派遣して来朝し、年に1、2隻派遣することを約束した。書状には九州節度使源教直(あるいは九州都元帥、九州総管)と称した。肥前州の阿也非知に居し、博多の南15里に小城がある。民居は1,000余戸、正兵は250余り。九州の兵を総治する。対馬島人の宗大膳らが言うには、「初め教直は大内および小二の領土回復を助けたが、居所を棄てられることを恐れ、密かに肥後州の也望加知に身を投じた」という。
千葉殿 己卯年に使者を派遣して来朝した。小城があり北の博多から15里離れている。民居は1,200余戸、正兵は500余り。書状には肥前州小城千葉介元胤と称した。年に1隻派遣することを約束した。
源義 乙酉年に使者を派遣して来朝し、書状には呼子一岐守源義と称した。年に1、2隻派遣することを約束した。小二殿の管下で呼子に居し配下の兵があり、呼子殿と称する。
源納 乙亥年に使者を派遣して来朝し、書状には肥前州上松浦波多島源納と称した。図書を受け年に1、2隻派遣することを約束した。小二殿の管下で波多島に居し、人は10余人を超えない。
源永 丙子年に使者を派遣して来朝し、書状には肥前州上松浦鴨打源永と称した。図書を受け年に1、2隻派遣することを約束した。小二殿の管下で鴨打に居し配下の兵があり、鴨打殿と称する。
藤源次郎 丙子年に使者を派遣して来朝し、書状には肥前州上松浦九沙島主藤源次郎と称した。年に1隻派遣することを約束した。
源祐位 丁丑年に使者を派遣して来朝し、書状には肥前州上松浦那護野宝泉寺源祐位と称した。年に1隻派遣することを約束した。宝泉寺に居する僧である。
源盛 丁丑年に使者を派遣して来朝し、書状には肥前州上松浦丹後太守源盛と称した。図書を受け年に1隻派遣することを約束した。小二殿の管下で配下の兵がある。
源徳 丙子年に使者を派遣して来朝し、書状には肥前州上松浦神田能登守源徳と称した。図書を受け年に1隻派遣することを約束した。
源次郎 己丑年に使者を派遣して来朝し、書状には肥前州上松浦佐志源次郎と称した。図書を受け年に1隻派遣することを約束した。小二殿の管下で武才があり配下の兵を持ち、佐志殿と称する。
義永 丙子年に使者を派遣して来朝し、書状には肥前州上松浦九沙島主藤原朝臣筑後守義永と称した。図書を受け年に1隻派遣することを約束した。
源義 乙亥年に使者を派遣して来朝し、書状には肥前州下松浦一岐州太守志佐源義と称した。年に1、2隻派遣することを約束した。小二殿の管下で武才があり配下の兵を持ち、志佐殿と称する。
源満 丁丑年に使者を派遣して来朝し、書状には肥前州下松浦三栗野太守源満と称した。年に1隻派遣することを約束した。小二殿の管下で配下の兵があり、三栗野に居する。
源吉 乙丑年に初めて使者を派遣して来朝し、書状には肥前州下松浦山城太守源吉と称した。図書を受け年に1隻派遣することを約束した。
源勝 乙亥年に使者を派遣して来朝し、書状には五島宇久守源勝と称した。図書を受け年に1、2隻派遣することを約束した。丁丑年に我が漂流人を刷還したことで特別に1隻加えた。宇久島に居し五島を総治し配下の兵がある。
少弼弘 丁丑年に使者を派遣して来朝し、書状には肥前州田平寓鎮源朝臣弾正少弼弘と称した。年に1、2隻派遣することを約束し、配下の兵がある。
源義 丙子年に初めて使者を派遣して来朝し、書状には肥前州平戸寓鎮肥州太守源義と称した。図書を受け年に1隻派遣することを約束した。小弼弘の弟であり配下の兵を持ち、平戸に居する。
藤原頼永 丙戌年に寿藺書記を派遣して来朝し、書状には肥前州上松浦那久野藤原頼永と称した。寿藺が書契と贈り物を受けて国王に伝えた事は上の山城州の細川勝氏の項に見える。那久野に居する。
源宗伝 戊子年に使者を派遣して来朝し、書状には肥前州上松浦多久豊前守源宗伝と称した。宗貞国の要請により接待した。多久に居し配下の兵がある。
源泰 戊子年に使者を派遣して来朝し、書状には肥前州上松浦波多下野守源泰と称した。宗貞国の要請により接待した。波多に居し配下の兵がある。
四郎左衛門 乙酉年に源満の使者として来て同参を受け、丁亥・戊子と連年来たが接待を許さなかった。
源貞 丁亥年に観音の現像を賀す使者を派遣して来朝し、書状には肥前州下松浦大島太守源朝臣貞と称した。大島に居し配下の兵がある。
源義 丁亥年に観音の現像を賀す使者を派遣し、書状には肥前州下松浦一岐津崎太守源義と称した。配下の兵がある。
貞茂 己丑年に使者を派遣して来朝し、書状には五島悼大島太守源朝臣貞茂と称した。宗貞国の要請により接待した。五島に居し源勝の管下であるが微者である。
源茂 丁亥年に雨花舎利を賀す使者を派遣し、書状には五島玉浦守源朝臣茂と称した。五島に居し源勝の管下であるが微者である。
源貞 丁亥年に観音の現像を賀す使者を派遣し、書状には五島太守源貞と称した。五島に居し源勝の管下であるが微者である。
藤原盛 己丑年に使者を派遣して来朝し、書状には五島日島太守藤原朝臣盛と称した。宗貞国の要請により接待した。五島に居し源勝の管下であるが微者である。
清男 己丑年に使者を派遣して来朝し、書状には肥前州彼杵郡彼杵遠江清原朝臣清男と称した。宗貞国の要請により接待した。
源重俊 丁亥年に舎利分身を賀す使者を派遣し、書状には肥前州太村太守源重俊と称した。太村に居し武才があり配下の兵がある。
源信吉 戊子年に観音の現像を賀す使者を派遣し、書状には肥前州風島津太守源信吉と称した。
源豊久 辛卯年に使者を派遣して来朝し、書状には平戸寓鎮肥州太守源豊久と称した。先父の義松が己丑の春に逝去し、義松が受けた図書を送り、新たな図書を受けるよう請い、今それを給送した。
肥後州 温井がある。郡は14、水田は1万5,397町。
菊池殿 丙子年に使者を派遣して来朝し、書状には肥筑二州太守藤原朝臣菊池為邦と称した。年に1、2隻派遣することを約束した。庚寅年にまた使者を派遣して来て図書を受けた。管轄する兵は2,000余り。代々菊池殿と号し、肥後州の主である。
源藤為房 乙亥年に使者を派遣して来朝し、書状には肥後州藤原為房と称した。年に1隻派遣することを約束した。
教信 己卯年に使者を派遣して来朝し、書状には肥後州八代源朝臣教信と称した。年に1隻派遣することを約束した。
政重 丁亥年に観音の現像を賀す使者を派遣し、これ以前に二度我が漂流人を救い、書状には肥後州大将軍大橋源朝臣政重と称した。
武教 丁丑年に武磨と名乗る使人を派遣して来朝したが、遠方であり不急の者として接待しなかった。丁亥年に武教と名を改めて観音の現像を賀しに来て、書状には肥後州高瀬郡藤源武教と称した。菊池殿の族親でありその管下で高瀬に居する。
日向州 郡は5、水田は7,236町。 大隅州 郡は8、水田は673町。 薩摩州 硫黄を産する。郡は13、水田は4,630町。
盛久 丁丑年に使者を派遣して来朝し、書状には薩摩州日向太守藤原盛久と称した。年に1、2隻派遣することを約束した。
煕久 乙亥年に使者を派遣して来朝し、書状には薩摩州伊集院寓鎮隅州太守藤原煕久と称した。年に1、2隻派遣することを約束した。
持久 丁丑年に使者を派遣して来朝し、書状には薩摩州島津藤原朝臣持久と称した。年に1隻派遣することを約束した。忠国の族親でありその管下で島津に居する。
源忠国 丁丑年に使者を派遣して来朝し、書状には薩摩三州太守島津源忠国と称した。年に1隻派遣することを約束した。丁亥年に観音の現像でまた使者を派遣し、書状には日隅薩三州太守島津陸奥源忠国と称した。国王の族親であり、薩摩・日向・大隅三州の事を総治する。
藤原忠満 丁亥年に観音の現像を賀す使者を派遣し、書状には薩摩州甑岐島代官藤原忠満と称した。
只吉 戊子年に使者を派遣して来朝し、書状には薩摩州房泊代官只吉と称した。宗貞国の要請により接待した。
久重 戊子年に使者を派遣して来朝し、書状には薩摩州市来千伐太守大蔵氏久重と称した。宗貞国の要請により接待した。
国久 戊子年に使者を派遣して来朝し、書状には市来太守大蔵氏国久と称した。宗貞国の要請により接待した。忠国の従弟でありその管下で部府に居する。
吉国 己丑年に使者を派遣して来朝し、書状には薩摩州内種島太守吉国と称した。宗貞国の要請により接待した。
持永 己丑年に使者を派遣して来朝し、書状には薩摩州島津藤原朝臣持永と称した。宗貞国の要請により接待した。
対馬島 郡は8。人の戸は皆沿海の浦に居し、およそ82浦ある。南北は3日の行程、東西はある所は1日、ある所は半日の行程。四面は皆石山で土地は痩せ民は貧しく、塩を煮て魚を捕り商売をして生計を立てる。宗氏が代々島主である。その先祖である宗慶が死ぬと子の霊鑑が継いだ。霊鑑が死ぬと子の貞茂が継いだ。貞茂が死ぬと子の貞盛が継いだ。貞盛が死ぬと子の成職が継いだ。成職が死ぬと跡継ぎがなく、丁亥年に島人は貞盛の母弟である盛国の子、貞国を立てて島主とした。郡守以下の土官も皆島主が任命し、これも世襲である。土田や塩戸を分けて属させ、三番として7日ごとに交代で集まり島主の家を守る。郡守は各々その境において毎年損実を踏査して税を収め、3分の1を取る。またその3分の1を島主に輸納し、自らも用いる。その1つとして島主は牧馬場4か所を持ち、2,000余匹の馬を飼う。馬は背の曲がったものが多い。産物は柑橘、木、楮、耳である。南北に高い山があり皆天神と名付け、南を子神、北を母神と称する。風俗として神を尊び、家々で精進料理をもってこれを祭る。山の草木や鳥獣は人があえて犯すことはなく、罪人が神堂に逃げ込めばあえて追捕しない。島は海東諸島の要衝にあり、諸酋長が我が国に往来する際は必ず経由する地である。皆島主の文引(通行証)を受けてから来る。島主以下各々使船を派遣し、年には定額がある。島は我が国に最も近く貧しいため、毎年米を賜ることに差等がある。
八郡 豊崎郡[あるいは都伊沙只郡と称する] 郡守 宗盛俊 宗貞国の異母兄。以前は宗貞国が郡守であったが、今盛俊に伝えた。盛俊は古于浦に居し遥かに治める。戊子年に使者を派遣して来朝し、書状には対馬州守護代官平朝臣宗助六盛俊と称した。 豆豆郡 郡守 宗彦次郎盛世 伊乃郡 郡守 宗盛弘 資茂の子で貞盛の妹婿。乙丑年に使者を派遣して来朝し、書状には対馬州宗右衛門尉盛弘と称した。年に4隻派遣することを約束し、毎年米豆合わせて15石を賜る。 卦老郡[あるいは仁位郡と称する] 郡守 宗茂秀 癸丑年に使者を派遣して来朝し、書状には出羽守宗大膳茂秀と称した。子がないためその弟の茂直の子である宗彦九郎貞秀を跡継ぎとした。茂秀の父の賀茂はかつて島主の霊鑑を退けてその任を奪ったが、霊鑑の子の貞茂がこれを取り返した。しかし賀茂の一族が盛んであるため絶つことができず、茂秀を都代官とした。 要羅郡 郡守 島主自ら守る 美女郡 郡守 島主自ら守る 雙古郡 郡守 島主自ら守る 尼老郡 郡守 宗盛家 宗貞盛の再従弟であり貞盛の娘婿。甲子年に使者を派遣して来朝し、書状には対馬州宗信濃守盛家と称した。年に4隻派遣することを約束し、壬申年に請願により3隻加えた。毎年米豆合わせて20石を賜る。 護軍多羅而羅 一名を而羅洒文家次、一名を而羅洒文家継、一名を平松而羅洒文家継、一名を太郎二郎という。庚辰年に図書を受けて来た際には米豆合わせて10石を賜った。賊の首領である。
八十二浦 時古里浦{20余戸} 尼神都麻里浦{100余戸} 皮多加地浦{50余戸} 安而老浦{20余戸} 司直源茂崎:乙亥年に我が漂流人を救った功により職を受けた。 守于時浦{15余戸} 郎加古時浦{30余戸} 頭未浦{10余戸} 蘊要浦{100余戸} 緊浦{40余戸} 阿時未浦{100余戸} 皮都浦{20余戸} 和因都麻里浦{20余戸} 五時浦{20余戸} 時多浦{350余戸} 沙加浦{500余戸} 護軍六郎洒文:己卯年に来て図書を受け、来た際には米豆合わせて10石を賜った。 護軍阿馬豆:旧居は一岐島毛都伊浦の海賊の首領である宮内四郎の子。戊寅年に図書を受けて来た際には米豆合わせて10石を賜った。戊子に名をまた四羅盛数と改めた。 司正都羅馬都:六郎洒文の子。甲申年に来て職を受けた。 司正都羅而老:向化した鍛冶職人の干知沙也文の子。父に従って来て職を受けたが、今は本島に還った。 秦盛幸:元は唐人の血を引き、島主宗成職の時に書契や文引を掌った。丁丑年に島主の請願により図書を受け、年に1隻派遣することを約束した。書状には海西路関処鎮守秦盛幸と称した。 職盛:故代官宗盛直の子。戊子年に使者を派遣して来朝し、己丑年にまた使者を派遣して父の遣わした船を継ぐことを請うたが、島主の書状がなかったため従わなかった。書状には対馬州平朝臣宗四郎職盛と称した。 時羅浦{10余戸} 仇時老浦{30余戸} 所温老浦{100余戸} 温知老毛浦{60余戸} 昆知老浦{40余戸} 也里古浦{30余戸} 要古浦{20余戸} 時羅古浦{20余戸} 要時浦{10余戸} 可門諸浦{30余戸} 訓羅串{100余戸} 上護軍平茂持:平盛秀の弟で従兄の六郎次郎の跡を継いだ。来た際には米豆合わせて15石を賜る。 護軍皮古時羅:平茂持の弟。甲申年に職を受け、己丑年に図書を受けて来た際には米豆合わせて10石を賜った。 副司果平伊也知:平茂持の子で、またの名を早田彦八という。庚寅年に島主の請願により職を受けた。 仇愁音夫浦{20余戸} 吾可多浦{20余戸} 桂地浦{400余戸} 尼于浦{10余戸} 那無頼浦{30余戸} 古浦{10余戸} 安沙毛浦 古于浦{100余戸} 島主 宗貞国:現在の天皇の嘉吉3年癸亥[正統8年]、宗貞盛が島主であった時、年に50隻を派遣することを約束した。もしやむを得ず報告する事があり、定数外で船を派遣する場合はこれを特送という[定数はない]。毎年米豆合わせて200石を賜る。 宗貞秀:貞国の長子で貞国と同居している。丁亥年に使者を派遣して来朝し、書状には対馬州平朝臣貞秀と称した。年に7隻派遣することを約束し、毎年米豆合わせて15石を賜る。貞秀は貞国の前任を襲いだため、使船や賜る米は皆その旧例のままである。 盛俊[豊崎郡の項を参照] 国幸:今辛卯年に対馬島の特送として来朝し、あわせて三浦を視察した。宗大膳国幸と称する。島主が信愛する者であるため特別に厚くもてなして送った。 仇多浦{30余戸} 造船五浦{10余戸} 仰可未浦{10余戸} 卦伊老浦{20余戸} 那伊老浦{20余戸} 安佐毛浦{15余戸} 豆豆浦{3か所合わせて300余戸} 宗茂世:一名を宗虎熊丸といい、宗貞盛の甥である。乙亥年に年に3隻派遣することを約束し、来た際には米豆合わせて10石を賜る。書状には九州侍所管事平朝臣宗彦八郎茂世と称した。 世伊浦{20余戸} 仇女浦{2か所合わせて50余戸} 沙愁浦{4か所合わせて300余戸} 国久:乙酉年に島主の請願により図書を受け、書状には対馬州佐護郡代官平朝臣宗幡摩守国久と称した。年に1隻派遣することを約束した。天神山の海賊を管轄し、今は兵を率いて博多にいる。 宗彦九郎貞秀:故代官宗盛直の従弟で、卦老郡守宗茂秀が立てて跡継ぎとした。庚辰年に使者を派遣して来朝し、書状には対馬州平朝臣宗彦九郎貞秀と称した。図書を受け年に1隻派遣することを約束した。 上護軍宗盛吉:宗盛家の弟。癸未年に図書を受けて来た際には米豆合わせて15石を賜った。今は身罷り子がいるがまだ使者を派遣していない。 宗盛秀:卦老郡守。 宗盛直:宗茂秀の同母弟。 阿里浦{100余戸} 麻吾里浦{20余戸} 于那豆羅浦{50余戸} 多浦{100余戸} 美女浦{650余戸} 仇知只浦{3か所合わせて150余戸} 伊乃浦{2か所合わせて100余戸} 尼多老浦{300余戸} 是時未浦{30余戸} 仇波老浦{20余戸} 豆那浦{100余戸} 加羅愁浦{50余戸} 沙愁那浦{400余戸} 国吉:戊子年に使者を派遣して来朝し、書状には佐須那代官平朝臣宗石見守国吉と称した。 吾温浦{100余戸} 護軍皮古汝文:戊寅年に職を受け、庚辰年に図書を受けた。三浦に恒居する倭人を総治する。 司正所温皮古破知:宗茂次の子で宗茂実と改名した。丁亥年に島主の請願により職を受けた。 宗茂次:庚辰年に我が漂流人を救って来朝し、丁亥年にまた来て対馬州上津郡追浦平朝臣宗伯耆守茂次と称した。 尼時老道伊浦{70余戸} 道于老浦{40余戸} 也音非道浦{無人戸} 臥尼老浦{10余戸} 可吾沙只浦{神堂がある} 阿吾頭羅可知浦{100余戸} 可里也徒浦{200余戸} 敏沙只浦{200余戸} 頭知洞浦{200余戸} 中枢平茂続:賊の首領である早田の子で、かつて来て侍り中枢となったが、今は本島に還った。 護軍中尾吾郎:平茂続の子で、中尾弾正が立てて跡継ぎとした。戊子年に来て職を受けた。 可時浦{150余戸} 護軍井可文愁戒:父は賊の首領である井太郎で、己亥年に東征した功があり、乙酉年に図書を受け毎年米豆合わせて10石を賜った。壬午年に父の職を継いだ。 皮老浦{40余戸} 多計老浦{80余戸} 仇老世浦{140余戸} 護軍皮古仇羅:海賊の首領である護軍藤茂家(和訓では辺沙也文)の子。乙酉年に職を受け図書を受けて来た際には米豆10石を賜った。 愁毛浦{400余戸} 吾也麻浦{300余戸} 老夫浦{200余戸} 臥伊多浦{100余戸} 古老世浦{50余戸} 介伊侯那浦{200余戸} 護軍時難洒毛:平家久(和訓では和知難洒毛)の子。戊子年に職を受けた。 吾甫羅仇時浦{50余戸} 雙介浦{50余戸} 完多老浦{100余戸} 古茂応只浦{200余戸} 沙吾浦{200余戸}
一岐島 郷は7、水田は620町6段。人の居る陸の里は13、海の浦は14。東西は半日の行程、南北は1日の行程。志佐、佐志、呼子、鴨打、塩津留が分けて治める。市が3か所ある。水田と旱田は半々。土地は五穀に適し、税の徴収は対馬と同じである。
七郷 加愁郷:佐志代官がこれを主する。 唯多只郷:志佐代官源武がこれを主する。戊子年に図書を受け年に1、2隻派遣することを約束した。書状には一岐守護代官真弓兵部少輔源武と称した。 古仇音夫郷:源経がこれを主する。己丑年に図書を受け年に1、2隻派遣することを約束した。書状には上松浦塩津留助次郎源経と称した。 源重実:丁丑年に年に1隻派遣することを約束し、書状には上松浦塩津留松林院主源重実と称した。 宗殊:己卯年に使者を派遣して来朝し、書状には一岐州上松浦塩津留観音寺宗殊と称した。年に1隻派遣することを約束した。 小于郷:呼子代官源実がこれを主する。年に1隻派遣することを約束し、書状には上松浦呼子一岐州代官牧山帯刀源実と称した。庚寅年に源実の子である正が使者を派遣して来朝し、書状には「去年の6月、父は官軍の先鋒となって敵と戦い死んだ。私は家業を継いだので父の例に倣って館待してほしい」とあった。 無山都郷:鴨打代官がこれを主する。 時曰羅郷:呼子と鴨打が分けて治め、各々に代官がいる。 郎可五豆郷:呼子と鴨打が分けて治め、各々に代官がいる。
十三里 波古沙只{150余戸} 信昭于{70余戸} 侯加伊{130余戸} 阿里多{50余戸} 伊除而時{100余戸} 愁未要時{70余戸} 也麻老夫{90余戸} 也那伊多{300余戸} 牛時加多{130余戸} 多底伊時{90余戸} 毛而羅{50余戸} 侯計{80余戸} 戸応口{50余戸}
十四浦 世渡浦{30余戸} 豆豆只浦{20余戸} 仇只浦{20余戸} 因都温而浦{40余戸} 阿神多沙只浦 頭音甫浦{40余戸} 火知也麻浦{100余戸} 毛都伊浦{100戸} 護軍三甫郎大郎:賊の首領である護軍藤永継の子。辛巳年に図書を受けて来た際には米豆合わせて10石を賜った。 司正有羅多羅:またの名を可文愁戒源貞といい、三甫郎大郎の兄。戊寅年に職を受けた。 司正豆留保時:藤九郎の次子。庚寅年に職を受けた。長子の也三甫羅は今来て侍り司正となった。 訓乃古時浦{40余戸} 臥多羅浦{100余戸} 無応只也浦{140余戸} 仇老沙只浦{20余戸} 于羅于未浦{50余戸} 風本浦{和訓は間沙毛都于羅}
琉球国紀 国王代序 国王は世襲である。洪武23年庚午に国王察度が使者を派遣して来朝し、琉球国中山王と称した。これより年ごとに使者を派遣した。その世子である武寧も方物を献上した。永楽7年己丑にその孫の思紹が使者を派遣して琉球国中山王と称した。その書状の概略は「先祖の王である察度および先父の王である武寧が相次いで薨逝し、そのために各寨が不和となり連年征戦し一向に疎曠となっていた。今、大明皇帝から王爵の寵封を賜った」というものであった。16年戊戌にまた使者を派遣し、琉球国中山王二男賀通連寓鎮と称した。その書状の概略は「私の兄が今年淹逝したため、私が初めて通聘する」というものであった。宣徳6年辛亥に琉球国中山王尚巴志と称して使者を派遣した。景泰4年癸酉に琉球国中山王尚金福見と称して使者を派遣した。6年乙亥に琉球国王尚泰久と称して使者を派遣した。天順2年戊寅に琉球国王見と称して使者を派遣した。3年己卯に再び尚泰久と称して使者を派遣した。5年辛巳に使者を派遣して琉球国王尚徳と称した。成化2年丙戌にまた尚徳と称して使者を派遣した。7年辛卯の冬、国王の使者が自端書堂から来朝した。自端が言うには、「尚巴志以前は知らず、尚の姓は巴志、号名は億載。尚金福見の名は金皇聖。尚泰久の名は真物。尚徳の名は大家。兄弟はおらず、今の王の名は中和といいまだ号はない。年は16歳。宗姓の丹峯殿主の女主の弟の名は於思といい13歳、次の弟の名は截渓といい10歳である。国王の居住地を中山というため中山王と称する」と言った。察度が初めて使者を派遣して以来相次いで絶えず、方物を進上することは甚だ謹んでおり、あるいは直接国人を派遣し、あるいはその国で商売している日本人に委託して使者としている。その書状は箋であったり咨であったり書を致したりと格例が一定せず、その称号や姓名も定まらない。琉球は我が国から最も遠く、その詳細を究めることはできない。とりあえず朝聘の名号や次第を記録し後の考証を待つ。
国都 国は南海の中にあり、南北に長く東西に短い。都には石の城があり、諸島が星のように列なっている。治めるのはおよそ36島。土産には硫黄があり、これを掘っても1年で坑がまた満ち、尽きることがない。毎年中国に使者を派遣して硫黄6万斤と馬40匹を貢納する。 梁回:宣徳5年庚戌に使者を派遣して来朝し、書状には琉球国長史梁回と称した。 李金玉:成化4年戊子に使者を派遣して来朝し、書状には琉球国総守将李金玉と称した。 等悶意:成化5年己丑に使者を派遣して来朝し、書状には琉球国中平田大島平州守等悶意と称した。
国俗 土地は狭く人が多いため、海船での行商を業としている。西は南蛮・中国に通じ、東は日本・我が国に通じている。日本や南蛮の商船もその国都の海浦に集まり、国人は肆(店)を設けて浦辺で互市(交易)を行う。 ○国王は楼に居し、他国の使者を宴する際は仮の楼を構えてこれと相対する。中国および我が国の書が至ると旗や纛を出して出迎える。 ○左右の長史2人がおり、王命の出納を行う。また五軍統制府・議政司・六曹がある。 ○土地は常に暖かく霜や雪はなく、草木は枯れ落ちない。 ○水田は1年に2度収穫する。毎年11月に種を播き、3月に苗を移し、6月に収穫する。そしてすぐにまた種を播き、7月に苗を移し、10月にまた収穫する。 ○男女の衣服は日本と大同小異である。
道路里数 我が慶尚道の東莱県富山浦から対馬島の都伊沙只まで48里。 ○都伊沙只から船越浦まで19里。 ○船越から一岐島の風本浦まで48里。 ○風本から毛都伊浦まで5里。 ○毛都伊から肥前州の上松浦まで13里。 ○上松浦から恵良武まで165里。 ○恵良武から大島まで145里。 ○大島から度九島まで30里。 ○度九島から輿論島まで55里。 ○輿論島から琉球国の国都まで15里。 ○合計で543里[我が国の里数で計算すれば5,430里]。
朝聘応接紀 使船定数 国王および諸大酋の使者が来た場合はこれを接待する。 ○対馬島主は毎年50隻を派遣する。あるいは事により別に船を派遣する場合はこれを特送と称する[定数はない]。 ○諸州にいる諸酋長は、あるいは年に1、2隻の船を派遣し[この時合わせて40人の名が諸州にある]、あるいは年に1隻の船を派遣する[この時合わせて27人の名が諸州にある]。皆定約がある。その他の諸酋長あるいは事により来朝し、あるいは使者を派遣する者は、皆臨時に教を受けて応接する。 ○我が国の官職を受けた者は年に1回来朝し、人を派遣してはならない。 ○国王の使者は定例として副船があり、3隻に至ることもある。大酋の使者は副船のみ。その他は並べて1隻である。 ○諸使は皆対馬島主の文引(通行証)を受けてから来る。
諸使定例 諸使を館待するには4つの例がある。 国王の使者が1例。 ○諸大酋の使者が1例[日本の畠山、細川、左武衛、京極、山名、大内、小二などを大酋とする]。 ○九州節度使、対馬島主、特送が1例。 ○諸酋使、対馬島人で職を受けた者が1例。
使船大小船夫定額 船には3等がある。25尺以下を小船、26尺・27尺を中船、28尺・29尺・30尺を大船とする。船夫は、大船は40人、中船は30人、小船は20人を定額とする。客使が来た場合は、三浦の節制使、万戸および差使員が船体を計り、船夫の人数を点検する。船夫が多くても定額を超えてはならない。もし不足していれば、点検した数で料を給する。このため三浦に恒居する者らが名を冒して点呼を受け、その料を分けるという姦偽が日増しに増えた。現在では教を受けてただ船体を3等に量って定額で料を給し、再び人を点検しないこととした。 ○国王の使者は船を量って人を点検せず、ただ見たままの定数で報告し並べて料を給する。
給図書 図書(印)を給する際は、見本を紙に写して礼曹と典校署に置き、また三浦に分けて置く。書状が来るたびにこれと照らし合わせて真偽を験する。
諸使迎送 国王の使者には三品の朝官を派遣し、京の通事を率いて三浦で迎え、帰る時には護送する。 ○諸大酋の使者には京の通事を派遣して三浦で迎え、帰る時には朝官が京の通事を率いて護送する。 ○対馬島主、特送、九州節度使の使者には、郷通事が上京し朝官を率いて護送する。
三浦熟供 国王の使者が三浦に留まる時は、上・副官人[正使を上官人、副使を副官人と称する。後も並びに同じ]、正官[船主、押物、侍奉を正官と称する。後も並びに同じ]、伴従人に量数に応じた熟供(調理済みの食事)を提供し、その他の船夫には料(食糧)を給与する。 ○諸大酋の使者、特送、節度使の使者には正官以上に熟供を提供する。 ○諸酋使以下は並べて料を給与する[1日2時の給料は並べて同じ]。 ○国王の使者の朝食は、正官以上に車食(車形の食事)、七種の果物の膳、伴従人には車食、五種の果物の膳、並べて三度の湯(汁物)。 ○朝夕の飯は、上・副官人には七楪(皿)の膳で飯・羹・二種の湯・二種の炙り物。正官・伴従人には五楪の膳で飯・羹・二種の湯・一種の炙り物。 ○昼の点心は、上・副官人と正官には五楪の膳で飯・羹・一種の湯。伴従人には三楪の膳で飯・羹・一種の湯。 ○諸大酋の使者は国王の使者と同じ。節度使の使者、特送は国王の使者と同じ。朝食は干魚の主菜、五種の果物の膳、三度の湯。
三浦分泊 対馬島が毎年派遣する50隻のうち、25隻は乃而浦に泊まり、25隻は富山浦に泊まる。その他の諸使は各々任意に三浦に分かれて泊まる。
上京人数 国王の使者は25人。 ○諸大酋の使者は15人。 ○特送は3人、別例の場合は1倍を加える。 ○九州節度使は3人、荷物5駄ごとに1人を加える。ただし5人を超えない。 ○諸酋の使者は1人、荷物5駄ごとに1人を加える。ただし3人を超えない。 ○職を受けた者は、堂上官は3人、上護軍以下は2人。 ○対馬島の50隻については、各船1人、荷物5駄ごとに1人を加える。ただし2人を超えない。
三浦宴 国王の使者が三浦に留まる時は宴享が3度[そのうち1度は宣慰使が、2度は差使員が設行する]、帰る時に1度[差使員が設行する]。 ○諸大酋の使者が浦に留まる時は2度、帰る時に1度[並べて差使員が設行する。以下同じ]。 ○特送、節度使の使者が浦に留まる時は1度、帰る時も同じ。一岐島以外の諸酋の使者が浦に留まる時は1度。 ○宣慰使の宴は、上・副官人に長車食、外行の安酒、排小の一果・四行の膳、正官は宣慰使と同じだが一果がない。伴従人には馬蹄車食、七種の果物の膳、並べて野生の花を挿す[以下並びに同じ]。三度の湯、点心、点果、大肉[豚肉]。 ○差使員の宴は、上・副官人に馬蹄車食、外行の安酒、四行の膳、正官に対客の三行の膳、伴従人に馬蹄車食、七種の果物の膳。その他は宣慰使の宴と同じ[国王の使者以下並びに同じ]。 ○宴のたびに、留まる船の船夫には真麦末1升、油1合、干魚1尾、生魚・肉は随宜、白酒1瓶を給する。
路宴 国王の使者は慶尚道で3か所、そのうち1か所は観察使が、2か所は守令が設行する。忠清道・京畿道では各1か所観察使が設行する。 ○諸大酋の使者は慶尚道で2か所、そのうち1か所は観察使が自ら行い、1か所は守令が設行する。忠清道・京畿道では各1か所観察使が自ら行う。帰る時も同じ。 ○特送、節度使の使者は慶尚・忠清道で各1か所、帰る時も同じ[守令が設行する]。 ○諸酋の使者以下、一岐以外の人は慶尚・忠清道で各1か所、対馬島の人は慶尚道で1か所、帰る時も並べて同じ[守令が設行する]。 ○観察使の宴の品は三浦の宣慰使の宴と同じ。守令の宴の品は三浦の差使員の宴と同じ[国王の使者以下並びに同じ]。
京中迎餞 国王の使者は漢江での歓迎の宴で、上・副官人に車食、七種の果物の膳、正官以下に車食、五種の果物の膳、並べて四度の湯、点心、点果、油蜜果五星二部、実果五星二部、菜肉交排五星二部[以上は礼賓寺]。大肉、干豚3口[司宰監]。酒[司醞署]。諸大酋の使者は初めて館に到着した際の歓迎の宴の品は国王の使者の漢江での歓迎の宴と同じ。帰る時は並べて漢江で送別する。
昼奉盃 国王の使者には3日ごとに1度設ける。上・副官人と正官は対客[礼賓寺。正に故あれば内資・内贍寺が正]。車食、七種の果物の膳、伴従人は車食、五種の果物の膳、並べて三度の湯、点心、点果[礼賓寺が掌る]。酒[司醞署]。 ○諸大酋の使者は国王の使者と同じ。
京中日供 国王の使者の朝食など三時の食品は三浦と同じ。自ら乾受(未調理の食糧支給)を願う場合は、朝食は熟供とし、その他の三時は5日に1回まとめて給する。正官以上には1人につき中米2斗、黄豆6斗[船主・押物・侍奉には太5斗]、真麦末7升、全鮑150個、石首魚5尾、青魚20尾、白蝦醢3合、真魚2尾、生鮮5尾、塩5合、真油2合、醤3升、醋1升5合、松の実10両、芥子2合、茶1合。僧であれば魚や醢を除き真茸・椎茸・古竹・笋・吾海召各5合を給する。清酒3瓶、焼木35斤、炭は2月から9月までは2斗5升、10月から正月までは5斗5升。伴従人には1人につき中米2斗、黄豆4斗、木麦米5升。その他は上と同じ。 ○諸大酋の使者の朝食など三時の食品や乾受は国王の使者と同じ。 ○対馬島の特送、節度使の使者も国王の使者と同じ[まとめて給する真麦末、全鮑、真魚、生鮮、茶、真茸はない]。 ○諸酋使以下の1日2時の乾受は、まとめて中米1斗5升、黄豆3斗[伴従人は2斗]、清酒2瓶、雑物は特送と同じ。朝食は熟供。 ○松明の炬は国王の使者に毎日3柄をまとめて給する[司宰監]。
闕内宴 国王の使者が進上し粛拝(王への拝礼)した後の食事は、上・副官人には茶食、外行の安酒、排小の一果・四行の膳、糸虚乙巨皮糸表、花纓絡、沈香の具。正官には対客[内侍府官]、馬蹄車食、安酒、四行の膳[以上は朝啓庁]。伴従人には対客[内侍府官]、馬蹄車食、九種の果物の膳[以上は勤政門南の行廊]。並べて四度の湯、点心、点果[膳や湯は内贍寺]、酒[司醞署]、大肉[司畜署、下も同じ]。 ○下直(退出)の粛拝と食事は進上の粛拝と同じ。 ○諸大酋の使者は国王の使者と同じ。 ○対馬島の特送、九州節度使の使者は、上・副官人には茶食、外行の安酒、排小の一果・四行の膳[虚乙皮は国王の使者と同じ]、対客の正官には馬蹄車食、四行の膳、伴従人には馬蹄車食、九種の果物の膳、並べて四度の湯、点心、点果、大肉。 ○諸酋の使者、職を受けた者、対馬島人などは並べて馬蹄車食、四行の膳。伴従人には対客、馬蹄車食、九種の果物の膳、並べて四度の湯、点心、点果、干大肉[司宰監]。
礼曹宴 国王の使者の慰労の宴は、上・副官人に散子、外行の小一果・四行の膳、紵布の花[勧花も同じ]。正官には長車食、四行の膳、野生の花[勧花も同じ。伴従人も同じ]。曹の堂上官には馬蹄車食、三行の膳[以下並びに同じ]。伴従人には馬蹄車食、九種の果物の膳。並べて四度の湯、点心、点果[以上礼賓寺]、大肉[司畜署。僧であれば餅を礼賓寺から]、酒[司醞署]。妓や工人は常例の倍数。近杖使令30名は皆黒い隷衣と冠を着ける[兵曹]。 ○餞宴(送別の宴)も同じ。 ○諸大酋の使者は国王の使者と同じ。 ○対馬島の特送、九州節度使の使者の宴の品は国王の使者と同じ。並べて野生の花[勧花も同じ]。 ○諸酋の使者以下は、上官人に長車食、四行の膳、伴従人に馬蹄車食、九種の果物の膳、並べて四度の湯、点心、点果、大肉、並べて野生の花[勧花も同じ]。
名日宴 国王の使者以下、大小の諸使の上官人・正官以上には車食、七種の果物の膳、伴従人には車食、五種の果物の膳、並べて四度の湯、点心、点果。
下程 国王の使者、大酋の使者には並べて3度、九州節度使の使者、特送には並べて2度。毎回酒、餅、果実、蔬菜、海菜、干茸、笋、豆腐、真末、清蜜、干魚肉、生魚肉、醢、芥子、五味子、茶、油、醤、醋などの物を、礼曹が啓上して給する。その回数や物目の量は、使人の身分や人数の多少、滞在日数の長短によって加減して定着させる。 ○別下程(特別の支給)も同じく、承政院が啓上して給する。
例賜 国王の使者の上・副官人には各々九綜の緇染木綿の長衫1[単衣は随時]、九綜の白綿布の長衫1、鴉青羅の内藍の僧冠1、黒馬皮の雲鞋1、九綜の白綿紬・白紵布・黒麻布各3匹、綵花の席5張。正官には綿紬・白紵布・黒麻布各1匹。 ○諸大酋の使者は国王の使者と同じ。 ○九州節度使の使者の衣服・冠・鞋は国王の使者と同じ[余の物はない]。
別賜 もし事によって引見(王に謁見)した場合は別の賜物があり、臨時に承政院が啓上して定める[人の重要度によって多少がある]。
留浦日限 国王の使者は日限がない。 ○諸大酋の使者は観察使の馬文が到着した後15日、浦に帰った後20日とする。もし期限外で故なく浦に留まる者には料を給しない。現在病気の者は治るのを待つ。下も同じ。 ○諸酋の使者、職を受けた者、対馬島人などは、馬文が到着した後、荷物が多い者は10日、少ない者は5日とする。期限外で故なく留まる者には料を給しない。
修船給粧 一岐島以外の諸使で船の修理や装具を請う者は、教を受けて水軍節度使に酌量して支給させる。これにより諸使は多く料を受けようと、あるいは船を修理すると称し、あるいはまだ装具を受けていないと称して留まり、その費用は甚だ多くなった。現在では教を受け、初めに船を計る時に船体の破損や装具の要・不要をあわせて点検して水軍節度使に報告し、再度調べて支給し、留まる船の船夫はあらかじめ修理して帰還を待つこととした。その給した板や釘などの諸縁や帰還の日は啓聞し、時にあわせて啓上する。
日本船鉄釘体制 大船は大釘の長さ8寸、重さ2斤。中釘は長さ6寸、重さ1斤14両。小釘は長さ5寸、重さ11両。鉅末釘は長さ6寸、重さ2斤7両。 ○中船は大釘の長さ7寸7分、重さ1斤14両。中釘は長さ5寸7分、重さ1斤7両5銭。小釘は長さ4寸7分、重さ9両。鉅末釘は長さ5寸7分、重さ2斤5両。 ○小船は大釘の長さ6寸5分、重さ1斤10両。中釘は長さ5寸、重さ1斤3両。小釘は長さ4寸、重さ7両。鉅末釘は長さ5寸、重さ2斤。
上京道路 乃而浦から金山、清州を経て京城に至るには1日2息で13日の行程。大丘、尚州、槐山、広州を経て京城に至るには14日の行程。 ○富山浦から大丘、尚州、槐山、広州を経て京城に至るには14日の行程。永川、竹嶺、忠州、楊根を経て京城に至るには15日の行程。 ○乃而浦から水路で金海[黄山江から下って洛東江に至る]、昌寧、善山、忠州[金遷から漢江に至る]、広州を経て京城に至るには19日の行程。 ○富山浦から水路で梁山[黄山江から洛東江に至る]、昌寧、善山、忠州[金遷から漢江に至る]、広州を経て京城に至るには21日の行程。 ○塩浦から水路で慶州、丹陽、忠州、広州を経て京城に至るには15日の行程。 ○国王の使者は日限なし。諸大酋の使者以下で期限を過ぎた場合は日を計算して料を減らし、あるいは病気、あるいは水かさが増した、あるいは荷物を運べないなどのやむを得ない理由で滞在する場合は、所在の官から明文を受けて来る。帰る時も同じ。
過海料 対馬島へは5日、一岐島へは15日、九州へは20日[日本本国や琉球国の使者も20日のみ]。
給料 国王の使者以下は皆1日2時各1升。国王の使者の上・副官人には中米、その他は皆白米。 ○国王の使者は2隻、3隻であっても船夫の全数に料を給する。 ○諸大酋の使者は副船があれば合わせて料を給し、ただ船体の大小で船夫の額数を定めて料を給する。もしその余りを請う場合は教を受けて加給する[あるいは半分、あるいは3分の1]。 ○諸使で格に違反する者は礼曹に報告し、礼曹が教を受けて接待を許せば、教を受けた日を始まりとして料を給する。接待を許されない者には過海料の半分を給する。
諸道宴儀 国王の使者が三浦で宴享を受ける際、宣慰使は東壁、上・副官人は西壁で並べて交椅(椅子)。差使員が堂上官であれば東壁の宣慰使の下に交椅、堂下官であれば南の行に縄床。正官は西壁で差して後ろ、伴従人はさらに後ろの行で並べて縄床。 ○宣慰使の宴:宣慰使が王からの宣旨を伴って三浦の客館に到着し中門から入る。客使は大門の外に出て出迎える。宣慰使が大庁に至り宣旨を卓上に安置し終わると、近くに東西に向かって立つ。客使は西門から入り西の庭に出て東を上とし北に向かって立ち、位置を異にして重なって四度拝礼する。通事が上・副官人を導いて西の階から上がり卓の前に進んで跪く。宣慰使は少し前に出て西に向かって立ち、宣旨を伝えて云々。執事者が酒を注いで宣慰使に授け、宣慰使は杯を持って立ち上・副官人に授ける。上・副官人は伏して立ち上がり杯を受け、飲み終わると正官以下も各々次々に上がって飲む。飲み終わると上官人以下は各々庭の下の位置に戻り四度拝礼する。上・副官人は西の階から上がって大庁に至り宣慰使の前で再度拝礼する。宣慰使が答拝し各々位置につく。正官は上がって宣慰使の前で再度拝礼し[答拝なし]座につく。伴従人は柱の外で北に向かって再度拝礼し座につく。宴を行うことは常の儀式の通りである。 ○道中の観察使の宴:観察使と宣慰使は東壁、上・副官人は西壁で並べて交椅。正官以下は各々西壁で差して後ろに重なって並ぶなど国王の使者の宴の儀式の通り。客使が入ろうとすると観察使は庭の下に出て導き、大庁に上がり東西に向かい合って再度拝礼し座につく。正官は観察使の前で再度拝礼し[答拝なし]、伴従人は柱の外で再度拝礼し各々座につく。差使員と守令は堂上官であっても参加できない。 ○道中の守令の宴:席の配置は三浦の宴と同じ。 ○諸大酋の使者:北壁、上・副官人は西壁で並べて交椅。正官以下は西壁で差して後ろなど国王の使者の宴の儀式の通り。上・副官人が初めに入り観察使の前で再度拝礼し、観察使は答揖して座につく。正官以下の拝礼は三浦の宴と同じ。 ○諸大酋の使者の道中の守令の宴:堂上官の守令は東壁で交椅、別通事は差して後ろで縄床。堂下官の守令と別通事は東壁で職位の順に座る。上・副官人は西壁で並べて交椅。節度使の使者や特送も同じ。
礼曹宴儀 国王の使者の宴:兼判書、判書、参判は東壁で交椅[各々順に差して後ろ]。上・副官人は西壁で交椅、正官は西壁の後ろの行、伴従人は月台の上で北に向かい並べて縄床。客使は西の脇門から入り兼判書、判書、参判の前に進んで順に再度拝礼し[皆答拝する]各々座につく。正官は西の庭から入り西の階から上がって東壁で再度拝礼し[答拝なし]、伴従人は中階の上で北に向かって再度拝礼し各々座につく。宴が終わると各々再度拝礼して初めの儀式の通りにし、退出する。 ○諸大酋の使者の宴:兼判書は北壁、判書は東壁、参判は差して後ろに並べて交椅。上・副官人は西壁、正官は後ろの行、伴従人は月台の上で並べて縄床。上・副官人は西の階から上がり入って兼判書の前で再度拝礼し、兼判書は答揖して東壁で再度拝礼し上の通りにして座につく。正官は入って兼判書の前で再度拝礼し次に東壁で[並べて答拝なし]、伴従人は中階の上で北に向かって再度拝礼し、東に向かって再度拝礼し各々順に座につく。各々杯を呈して宴を行う。宴が終わると各々再度拝礼して初めの儀式の通りにし、退出する。 ○諸酋の使者は大酋の使者と同じ[答拝なし]。
三浦禁約 対馬島の人々が初め三浦[熊川の乃而浦、東莱の富山浦、蔚山の塩浦を三浦と号する]に寓居し、互市や釣りを行うことを請うた。その居住や通行は皆定められた場所があり、違越してはならない。事が終われば帰還することになっていたが、これに因って留まる者が次第に増えていった。世宗は島主の宗貞盛に書状を送り[正統元年丙辰]、皆を刷還(送還)するよう命じた。貞盛の返書には「皆並べて刷還すべきですが、その中で最も長くいる者60名についてはしばらく留まることをお許しください」とあり、これを許した。その後もそのまま帰らないため、世祖はまた島主の宗成職に書状を送り[己丑年]刷還を命じた。成職がまもなく死に、また現在の島主の宗貞国に書状を送った。貞国の言葉には「私は小二殿に従って博多に2年おり、まだ奉行できていません。しかし食言はしません」とあった。 ○丙戊年に巡察使の朴元亨が兵糧を支給した際に人口を密計したところ、乃而浦は戸数300、男女1,200余口。富山浦は戸数110、男女330余口。塩浦は戸数36、男女120余口であった。 ○旧約として、商売人が密かに恒居人の戸に接すること、因縁をつけて小屋を結ぶこと、貿易の事が終わった後に故なく留まることは並べて痛く禁じる。
釣魚禁約 対馬島人で釣りを行う者は、島主から三着の図書文引を受け、知世浦に到着して文引を納め、万戸から文引を改給される。孤草島の定められた場所以外に横行することを許さず、釣りが終われば知世浦に還り、万戸に文引を返し、税魚を納める。万戸は島主の文引に回批の印を押し、験として還付する。もし文引を持たず、風浪に耐えられないと称して密かに兵器を持ち辺島を横行する者は、賊として論ずる。
海東諸国紀 終
畠山殿副官人 良心 曹への饋餉日(食事の振る舞いの日)に書契を呈する。
そもそも現在の日本国の大乱が起きた根本について申し上げます。細川右京大夫源勝元と山名右衛門督源持豊は、国王と同姓で代々の大臣であり、右から左から王を補佐して朝廷の権柄を握るものでありました。例えるなら(戦国時代の趙の)廉頗と藺相如の両家のように、威勢を争って連日隙があり、ついに戦闘に及べば天下は二分され、京師に集まる士卒は幾千万を数えるか分かりません。国王は度々和親の詔を下しましたが、人が多いため蔓が延びるように乱れを収めることは難しく、ついに乱世となりました。ここで勝元に属する者を東軍と称し、持豊に属する者を西軍と称します。これは彼らの居所が東西にあるからです。 東西が陣を張り、まさに咫尺の間にあって先鋒を出し雌雄を決しようとしていた時、勝元は思いがけず帳の中で奇策をめぐらし、急いで宮中の四面を囲み、我が軍営の裏に入れて深く溝を掘り高い塁を築き、王の乗る車や旗を外に出させませんでした。持豊の一党が流れの真ん中で船を失ったのもこのようなものでしょうか。ゆえに持豊に味方し党する者も、甲を脱ぎ弓を緩め国王の軍に降伏を請おうとしましたが、勝元は謀逆の徒であると称してその降伏を受け入れませんでした。 西軍は怒り、勝元への怨念は以前の万倍にもなりました。君主に不忠を致すかのようですが、戦わずしてどうして息(や)むことができましょうか。西軍の中心は実に君主を敵としようとしているわけではありません。たとい百万の軍勢があったとしても、天誅を逃れることはできません。どうして年月を待った後に滅没するのでしょうか。そうであれば、西軍は無罪なのでしょうか。どうしてそうでしょうか。伝に「趙盾が晋の国境を出なかったため君主を弑した名を得た」と言います。ましてや今、彼らの軍衆は京都を去らず、日夜戦闘し、流血は杵を漂わし、陣太鼓の音は天地を動かし、すでに7年に及びます。上は王侯から下は士庶人に至るまで、百の辛さ千の苦しみを味わい、国家は日増しに疲弊しています。どうして言葉で語り尽くせましょうか。 とはいえ、朝陽は侵されず、蛍の光は自然に消え去るものです。初め西軍にいた者も、今では東軍に降伏した者が十のうち六、七にのぼり、東軍にいて西軍の党に属したという話は未だ聞きません。これこそ天が人を勝たせる理です。現在見る限り、西軍の徒党は1、2年を過ぎずして亡びるでしょう。ここにおいて、畠山左京大夫義勝は初め従弟の畠山右衛門督義就に従って西軍にいましたが、去年の春に国王が密かに詔を下すと、車を待たずに召しに応じました。これにより越前・越中・能登・加賀の4州の関所はすでに開かれ、旅人は自然と穏やかに洛中へ兵糧を運び、平日のように滞りません。北藩が静謐となった功績はただ義勝の一挙によるものであり、ゆえに今、管領の職を忝くしているとのことです。 右の草状1通、言葉は卑野で句読も分け難く、汗が背を流れる思いであり、実のところ閤下の尊覧に供するには足りませんが、通事はただ世俗の言葉を通訳するのみです。このような大きな議論は言葉では通じ難いのでしょうか。ゆえにその概略を記して奉呈いたします。 成化9年(1473年)9月2日 啓上
琉球国 一、国境は東西に7、8日の行程、南北に12、3日の行程である。 一、水田は1年に2度収穫する。正月に種を播き5月に刈り取り、6月に種を播き10月に刈り取る。陸の田は1年に1度収穫する。 一、男子は貴賤を問わず髪を結って右に髻(もとどり)を作る。国王は常に赤い布で頭を包み、職を持つ者は雑色の布、庶人は白い布を用いる。衣服は皆袖が広く、中国の使臣が来ると国王は烏紗帽、紅袍、玉帯をつけ、群臣も品階に従って各々その服を着る。これらは皆中国の制度に倣っている。 一、毎月の1日と15日の朝に群臣は必ず宴を設ける。 一、中国人で来て居住する者が3,000余家あり、別に城を築いてそこに住まわせている。 一、三発司が1名おり、国の大臣に当たる。政治の大小を問わず皆これを統括する。本国人でなければこの職に就くことはできない。 一、長史2名、正議大夫2名がおり、用事を司る。皆、中国人で来て居住する者から任命される。 一、朝廷の士には職田があり、また商船での貿易も品階に従って配分し、税を収めて食費に充てさせる。 一、国王の喪には金銀で飾った棺を用い、石を穿って槨とし、埋葬はしない。山に屋舎を造って安置し、10余日後に親族や妃嬪が集まって哭泣し、棺を開いて屍を出し、肌膚をことごとく削ぎ落として流水に投げ捨て、骨を棺に還す。士庶人の喪も同様であるが、石の槨はない。 一、父母の喪において、士大夫は100日、庶人は50日の間、肉を食さず酒を飲まない。 一、婦人に子女がなく夫が死んだ場合、自ら首を刎ねて殉死する者が十のうち七、八いる。王もこれを禁じることはできない。 一、刑罰には流刑と斬首があり、笞や杖はない。 一、天地の壇があり、祈祷の際には必ずこれを祭る。他国に使いする者は壇に詣でて香を焚き、香の灰を取って飲み込み、「我が国の事はかの国では決して語らない」と誓い、その後に旅立つ。 一、国の東南の海路で7、8日の行程に小琉球国がある。君長はなく、人は皆長大で衣服の制度はない。人が死ぬと親族が集まってその肉を割いて食し、その頭を漆で塗り、廂をつけて飲食の器とする。 一、語音翻訳(*この部分はHONYAKU1.JPEG、HONYAKU2.JPEG、HONYAKU3.JPEG、HONYAKU4.JPEG、HONYAKU5.JPEG、HONYAKU6.JPEG、HONYAKU7.JPEG、HONYAKU8.JPEGに収録)
弘治14年(1501年)4月22日、承文院に啓下された。
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